秋の冷気は私達の脳神経を活性化させ、季節の移ろいの中に美しさを感じさせる想像力を高め、人を芸術に目覚めさせます。このようなことから、今回は季節に因んで掲題の話を致しましょう。

子供たちの絵

先日、選挙の投票をするために、その会場となる近くの小学校を訪れた時のことです。
その小学校の職員室と思しき部屋の側を通ったとき、そこのちょうど良い高さの窓に、内から外に向けて沢山の絵が横並びに掲示されていました。まさしく、「皆さんぜひ見てやってください」というように。普段、外部の人間は学校には要事がないかぎり立ち入れないことと、本来絵が好きな私は、投票はそっちのけでしばらくそれらの絵を鑑賞し、投票後もまたそこに留まってしばしそれに見入りました。

その展示は、学年別に先ず一年生から六年生まで順番に、各学年数枚ずつ並べてありました。画題(対象物)は学年ごとに決まっているようで、全学年同じものを描いてはいませんでしたが、それぞれ優秀作が選ばれているようでした。そのようなことから、みな大したものだと感心させられましたが、中でも強く印象に残ったのは低学年、特に一年生の絵でした。
対象物は特徴のある雄鶏(多分、ここに載せた写真のロードアイランドレッド種もしくは名古屋コーチン)でしたが、子供ってこんなに絵がうまかったのかと思わせるすばらしい出来映えでした。

画面一杯の思い切った構図で、その雄鶏の特徴である尾羽、手羽、鶏冠や蹴爪などが実寸にこだわらずたじろぐことなく思い切って強調されており、色づかいにも各自が感じたままをしっかり描き出していることから、それぞれの絵に個性が強く出ていて、面白みがありました。
中でもこれはと思った作品は、あの気の強い雄鶏の鋭い目力を描き出しており、あたかも生きて飛び出すような動きを感じさせられ、これが正しく体裁にこだわらない創造力のある芸術性というものではないかと思ったしだいでした。
かのアルタミラ洞窟の壁画(注)は躍動力と創造性がある秀作とされていますが、それは自然の観察力をもとに捉えた現象を一気に描いた中にこそ表れるものであろうと、そしてこの辺りのことにヒトの進化の起動力となった創造力があるのではないかということが、今回の子供達の絵の鑑賞からあらためて考えさせられ、私にとってとっても楽しく貴重な時間を頂いたという気持ちでした。
(注)アルタミラ洞窟壁画:スペイン北部、旧石器時代(一万八千年~一万年前)、動物を主体に描いた彩色壁画。

さらに学術的な面からも興味深く思えたことは、学年が上がってくると整った作風になってくるものの、一、二年生の絵に感じられた思い切った勢い(躍動力)が減ってきて、総体的に落ち着いた安定した絵、表現を変えると常識的な絵に変わっていくことが見えたことでした。
学校としてはそれを意識して掲示したのかどうか分かりませんが、その時系列的変化に私は人間の脳の成長と精神構造の変化を感じ、後述する以前読んだ脳科学の論文内容の幾つかが頭に浮かびました。
すなわち、年齢を経るに従って、社会から得る経験や知識が脳内神経ネットワークを発達させ、それが思考や行動の抑制を果たすことが、一般社会では「常識的な人間になってきた」、「人として成長してきた」と称されることになるのですが、それが芸術性からみれば整ったようでも、勢いや特徴が薄れ、創造性も感じられなくなってくるという傾向が出てくるということが、小学校の絵の鑑賞で私は正に感じたわけです。
それはどういうことなのか、それらのことを解説し始めると話が長くなり、また面倒な精神病理の講釈がはじまったと読者の方々から嫌われそうなので、このブログでは深入りは控えます。そのかわり、最近の脳科学の論文、報告の中から、本件に関連する参考情報のエッセンスを私の解説も織り交ぜて以下に記しておきますので何らかの参考にして頂けたらと思います。

☆ 幼い子供は邪念がなく、目の前の環境に興味を持って素直に眺め、捉え、解釈しているので、芸術を意識せずとも芸術的行動をとっており、その素直な楽しさが必然的に想像力を育てている。それが人間の成長に繋がっていく。
言い方を変えると、無意識の中から泉のように湧き出る興味が、対象物をしっかり観察し、その現象を素直に捉えた頭の中の映像をありのままに紙の上に描き出した時に芸術的想像性すなわち創作美が生まれ、そこに創造性も表れ出ると考えられている。それは直感的なもので、ただ考えるだけからは表れ出てくるものではない。

☆純粋な喜びで充実感があるときのほうが、お金や名声など外的な報酬が得られるよりも、オリジナルで創造力に富んだ成果が生まれるという研究結果が出ている。
「芸術」と特別に意識し出すと、或いは強制されると、それは「興味」や「楽しみ」から「作業」に変わる。そのような「作業」からは創造性は生まれ出ない。
ましてや興味や楽しみから遠ざかった報償目当ての芸術や強制された芸術からは真の創造的作品は生まれ出ない。

☆IQの高さと創造性は相関しない。
創造的能力は観察力から生まれる。
観察から想像力が養われる。
絵を描くということは対象物を観察して読み解くことである。
よって自分の環境は自分を育み、自分の内面に哲学(文化)を形成させる。
生まれた場所、育った環境によってその人のものの考え方、捉え方、生き方が異なってくるのはこのようなことが背景にあるからであり、人が創る芸術文化はその人の人生を表していると言える。

(以上の☆印の内容詳細にご興味ある方は次の三方の氏名をウエブサイトで検索され、各々の論文、著書をご確認ください。Teresa Amabile, Alfie Kohn, Nancy Andreason )

脳生理学の観点から

さて、芸術は大脳右半球に側性化しているということを今でも引用している人がいますが、このことは十分な科学的根拠に基づいておらず、過去に発表された仮説が科学的根拠の追求がないまま、その後にまことしやかに影響を与えてきているに過ぎません。言うなれば、左脳が言語を司っており、右脳が視覚的情報の処理を司っているという脳生理学的事実と、芸術は視覚的であり言語的ではないことから類推して、芸術は右脳が支配していると決めつけてしまったことからきている間違いなのです。現在の脳科学では、論理的思考や分析力が優れている人は左脳が、創造的想像力に長けている人は右脳が発達しているということは否定されているということを知っておくべきでしょう。

確かに左右の脳の機能はまったく同じではなく違う役割を果たしているは事実ですが、それらの間は綿密な神経線維のネットワークで構築されており、その連携の総和で想像性の能力が発揮されているのです。そういうことから芸術性も創造性も左右双方の脳がしっかり連携作用してこそ成り立っているのです。
言語の理解や発話、書字、読みなど、脳内のその中枢が明確に知られている機能と異なり、芸術表現の制御に関する神経ネットワークの局在は知られておらず、左右どちらかの半球への側性化や特殊化も知られていないのです。

大事なことなので繰り返しになりますが、芸術に関しては、特有の脳の領域はなく、音楽家であれ画家であれ、脳の広い領域を用いて創造性を働かせていることが明らかになっています。また、芸術の種類(分野)によって脳の各部分の働きの度合いが変わってくると報告されてもいます。細かくて現実的な芸術と抽象的な芸術では脳の使う分野が違うということも知られています。

要するに、芸術的能力は生まれつき脳の一部に局在せずに、脳全体のネットワークが連携して起こる機能であり、もともとそれが高度に発達した人もいれば、訓練や環境によっても発達していくものなのです。
しかし訓練や環境が悪ければ本来もっている能力も止まり、社会から得る知識や経験により、抑制され、変化、消失することが多いことから、一般に子供の時に発揮できた書画の能力が大人になるに従って無くなってくるように見えるのはこのようなことからなのです。

病理的な面からこの経時的抑制作用について例を挙げて論証しますと、自閉症の中でサバン症候群といわれる人の中に、小さい頃から絵画などで天才的な才能を発揮する人材がおり、その人達には次の様な共通点がみられることが分かっています。
1)最初から飛び抜けた技能を発揮するのですが、それが時間と共に進歩する傾向は見られず、創作意欲は旺盛で継続する。
2)高度な空想力ですばらしい記憶力を示す写真的、写実的な作風が多い。
3)色をあまり使わないか、あるは反対にカラフルだが形がないモザイク様描写。
4)下書きや修正を必要としない見たままの映像記録的描写。
5)言語コミュニケーション能力が低い。

これらのことから、それらの人達の脳には飛び抜けた才能があるというより、脳内の抑制経路(神経ネットワーク)が欠如或いは発達が未熟であるがために、表現力が干渉されていない、すなわち感覚統合不全があると考えられています。

類人猿の研究から、我々人類にはもともと状況を写真のごとく捉える能力が備わっていることが分かってきており、その視覚情報を脳内で瞬時に精査、選別して行動に対処するという機能が備わっているということに注目すべきです。(Frans de Waal)
このことから人類が保有するこのすばらしい芸術的才能を、ともすれば環境や大人が後天的に抑制し、せっかくの伸びる芽を摘んでしまっているということを私達は知っておくことが必要なのです。

以上、今日はこの辺で失礼します。