本報のタイトルとした「追憶」という言語は短いながら人生観に満ちた内容のある言葉でないでしょうか。ロマンティックな意味合いもあることから表現を変えて様々なタイトルにした小説や映画が世界的にこれまで数多く作られてきました。
日本語の「追憶」の中には同音異義語で「懐古」と「回顧」の双方の意味が含まれています。「懐古」は懐かしく思い返すことで、「回顧」は過去を振り返り、自分のしてきたことを思い考えるということで、反省的な意味合いが含まれているとされています。
今回の私の話題は、前報で話題に挙げた畑作業をしている中で頭の中を巡ったこと、すなわち「雑草」に端を発して「植物の根」「根毛」「根圏」「毛細血管網」「播種はしゅ」「誘引ゆういん」「癌転移」「増殖」などと連想していったことが呼び起こした私の科学的回顧のことです。

前報(7月18日)では「雨続きで畑作業が捗らないので」などと書きましたが、その翌々日あたりから天気が回復しだし、本州の酷暑報告をよそにまさしく北海道らしい夏の天候が続きました。今頃の北国の日の出は早く4時頃明るくなり、朝露に濡れた植物の中で気温はひんやりと気持ちが良く、しだいに空が晴れ渡っていく中で午前8時過ぎると気温が上がり出しますが日陰は涼しく、夕方は7時過ぎまで明るく夜も湿度が低いので助かります。同じ国内でも高温多湿で悩まされている本州以南の方々にできるならこの空気感を詰め込んで送ってあげたい心境です。

現象から事実を学び、生命の多様性に思いを馳せる

このような状況ですから畑仕事は早朝として、手始めに雨が続いている間にはびこった・・・・・草むしり(雑草取り)を行いました。一口に雑草と言っても、その世界では名のある植物達で、自然の中では野草と呼ばれる勢力たくましい猛者もさ達です。農地の中で放置しておくと畑を覆い尽くし、短期間の内に植えた作物達を侵食していきます。口絵として載せた写真は我が家の畑の一角にあるカボチャ栽培領域です。カボチャはけっこう勢力のある植物なので葉もの野菜・・・・・と違って簡単には雑草に負けませんが、一度きれいに耕した後でも今はこのありさまで、これでもこの雑草達はまだ成長初期の状態です。このままにしておくと1,2週間後にはカボチャの存在が分からなくなるぐらい繁茂し、そこに上から下から虫達が寄ってきます。海藻の多い磯に小魚や様々な海洋生物が集まるのと同じように雑草の根元には土壌生物が集まり繁殖しだします。中には固いカボチャの皮に穴を開けるものも現れます。植えた作物達は栄養を取られ成長が止まり、その内に栽培種の悲しさで消えて無くなるものもでてきます。というのは雑草の中には栄養吸収力だけではなく、根を下ろした周囲を自分に適した環境(根圏)を作り上げ、他の植物の成長を止め自分達が定着するための生理活性物質を分泌して増殖していくものもあるからです。この作用を多感作用(アレロパシー)と言いますので興味のある方は調べてみてください。前述のように雑草には自分達に適した昆虫(農作物にとっては多くは害虫)を土壌中も含めて呼び込みますが、それらによる作物の食害だけではなく、彼らと共生する細菌やウイルスが原因となる病気も発生し出します。片や野菜達も傷つきながらも先祖帰りしたように自らの免疫反応である生理活性物質の分泌を活発化させるなどをして侵蝕してくる雑草や害虫に対抗するようになりますが、そのために苦味や辛みが増え、外皮や中身も固くなり、多くは人の口には合わなくなるような現象が出だします。
雑草たちは成長も早く、たちまち花を咲かせ、種を作り、それを巧みに辺りにまき散らします。種を遠くに弾き飛ばすもの、綿毛を付けて風に乗せたりするもの、側を通る人や動物の手足や衣服に付着して運ばせるもの、雨水に種を浮かばせて移動するもの等々、その技は巧みです。
これらは地上の状況ですが、地表面や地中でも根があたかも蛇のように自分達の適地を探しながら立体的に伸び広がり、そこから発芽(根発芽)するものも多く、メデューサの頭のごとくその勢力には恐るべきものがあります。このように農作物の育成の面からみればまことに困る現象なのですが、科学的観点からみるとその各々の技の巧妙さとそこまでに至った進化の過程まで思いを馳せると感心かつ学ばされることが多々あるのです。

生存の条件、共生の原理

写真2は口絵の写真にも写っている雑草(イネ科メヒシバ)の根の姿です。ご覧のように丈夫なひげ根が発達しだしています。除草剤は使いたくなく、さりとて削り取る方法では防除効果は一時的でしかありません。ようするに植物の基本的生存能力は土壌中の根にあるので、残っている部分が活性化して短時間で発芽(根発芽)、そこからまた同じものが出てくるものが多いのです。そのため雑草は根ごと手で引き抜くか堀り上げるのが一番効果のある方法なのですが、専業農家はそのような手間の掛かる方法はやっていられないので、その土壌や農作物に見合った様々な方法で雑草対策を行っていることは言うまでもありませんが、ともかく雑草は農業にとって労力とコストの両面から厄介者なのです。

このように掘り出した植物の根の姿は私にとって考え深いものがあります。石川啄木の「一握りの砂」の中に、「はたらけど はたらけど なおわが生活楽にならざり っと手を見る(・原文のまま)」という一節がありますが、私にとって植物の根を見て必ず思い出すことがあります。そのことは後でお話しするとして、もう少し根というものの構造と機能について、その概略を説明しておきましょう。
人が育種改良を重ねてきた植物(いわゆる農作物)は人間に都合良く作られてきたわけで、目的の収穫物は大きく、量も多く、それ以外の捨てる部分(根や枝葉などの残渣)は極力少ないのが良種となりますが、野生の雑草たちはまったくその反対です。根というのはその植物をその場所に定着させ雨風に耐えるための備えだけではなく、その植物の陸上部分を育てるための重要器官であり、たとえ地上部が何らかの原因で失われても再生可能な機能を有しているのが大方です。彼らが日々生きるために必要な「水分や栄養素の吸収、循環、貯蔵機能」、「周囲環境との情報交換」、「外部からの侵襲に対抗する防御機能(植物免疫機能)」などの重要機能の管理を地中の根が担っています。
皆さんの学童期に理科で習った植物の根の基本的構成の復習になりますが、双子葉植物の根は「主根」とそこから分岐する「側根」、単子葉植物は「ひげ根」で構成されています。「側根」や「ひげ根」の表面には目に見えない微細な「根毛」が無数出ていてそれらが植物達の大事な働きを担っています。これは私たち体内に密集する毛細血管やリンパ管と同じ働き、すなわち地中の根の周囲環境と間で分泌、吸収、排出などの代謝作用を行う役割を担っています。水中や空気中などの土壌でないところで活動する植物種の根も基本的にその周囲環境と物質交換するために適した独特な構造と機能を進化の中で作り上げています。
これまでの説明でお分かりかと思いますが、根は植物にとって非常に重要な組織器官なのであって、我々が普段目にする土から上の華やかな花達は言うなれば生殖器官であり、それを支えるのが茎や枝であり、葉は呼吸器や澱粉製造器官であって、それらを支配する重要な器官は土中にあって我々の目からは隠れているわけです。

その植物を手で引き抜いた場合は目に見える部分だけ上がってきますが、長く細かく広がっている微細なひげ根やそこに生えている根毛の多くは切れて土中に残ります。本来、それらこそ植物の重要器官であり、他の植物達とも地下で繋がりを持っていて、お互いに協力、あるいは牽制しながらその環境での自ら、あるいは仲間達の安住性を図っています。また根の先端部分、いわゆる根毛の生えたひげ根はその周辺環境から成長に必要な栄養物を得ていますが、その仲立ちをしているのが土壌中のミミズなどの小動物や常在となった微生物達です。すなわち根毛の周囲は、その植物の生長に伴って「根圏こんけん」という独特の生物環境ができてきます。ここは植物種ごと異なった、すなわちその植物が作り上げる世界であり、動物に例えると腸の内表面すなわち腸粘膜とそこに常在する細菌叢が作っている世界と同様なのです。
植物はその種によって根圏に棲息する微生物が異なっていることが普通なのですが、そのためにその世界ができ上がるまではその植物の生長は順調に進まないという現象があります。
このことは農作物や園芸植物栽培の連作障害などの問題にも関係してきます。
例えば「ツツジ」などは、根に着いていた元の土を洗い落としてしまうと、植え替えた先での成長が極端に悪くなるという現象があります。「植物は土を選ぶ」ということが言われますが、それは物理化学的な環境因子以外に生物学的因子すなわちそこに住み着く微生物や小動物達も重要な因子になりますので、その植物を丈夫に育てるためにはその知識が必要となります。またその生物圏を壊すこと、すなわち殺菌・殺虫剤の乱用、高濃度の施肥、乾燥あるいは多湿、高温あるいは低温などは結果としてそこの植物の生長を阻害することに繋がるのです。
土の中には葉の屑など様々な有機物質が含まれていますが、植物の根はそれらから直接に栄養を取ることができません。まず土の表面や内部に住んでいる小動物達(ワラジムシ、ミミズ等々)がその有機物を餌にして分解し排出したものを土中の微生物(細菌やカビ類など)が餌として酵素分解し、そこで生成された物質(チッ素、リン酸、カリ、ある種のアミノ酸など)を植物が吸収するという、いわゆる段階的な生化学的機構がそこに作られてはじめて良質な成長現象が生まれることになるのです。
さて、これまでの話は前置きであって、ここから本題に入りましょう。

生物の進化の先にいるのは何ものか

堀上げた植物達の根の姿とそれらが土壌中で活動する姿は、私に動物体内の脈管系(血管やリンパ管)の構造と機能を思い起こさせます。というのは、かつて私がまだ学究的世界にいた時の研究テーマが「人体内の微小循環器系の病態」であって、実験病理学的にその病変を追っていた時期がありました。その時に観察した様々な現象が現在趣味として続けている園芸の中で気が付き、ひとり感慨に浸っているからです。この話を続けると話がブログの域を出てしまいますのでここではそのエッセンスだけ説明しますと次のようなことです。

  1. 植物の根の構造と機能(根の先端の挙動:伸びる仕組みなど)と動物の毛細血管の発達、特に「創傷修復時の血管」や「がん細胞に誘引され、その増殖を助けるようになる血管」の挙動(活動と反応)との間には共通するものがある。
  2. 植物の根とその周囲環境、すなわち根圏内の活動(生理活性物質の分泌、周辺微生物との関係、代謝・物質交換など)は「ヒトを含めた動物の腸内や皮膚表面に常在する微生物達とその動物の生理的相関」に類似し、その共生の姿に生物の生存条件の一端が推察できる。
  3. 植物の種子のでき方とその自らの散布方法や種の発芽、休眠の仕組みなどに「がん細胞の転移、増殖の仕組み」との共通点がうかがえる。

このように、少しの例を挙げただけでも生物界には非常に多くの類似、共通現象があり、「どちらがどちらに似ているのか」ということを私は今さらながら考えさせられているわけです。
また、このことは私にとって「あの時期に動物以外に、特に植物の根の構造と機能、すなわち植物生理学の分野まで探索範囲を広げて課題を追求していたなら、もっと深い結果を得られたのではないか」という悔恨の思いにもつながっています。もちろん当時は比較解剖学的に哺乳類のみならず各種動物の類似現象をも対象として調べました。しかし、植物も生物であるものの、当時の私の頭の中は動物界の域を出ていませんでした。生物の進化を考えたとき、植物は動物よりずっと先を歩んできているのであり、人間は生物進化の先輩ではないのです。そのため植物の中には動物より進んだ巧妙な機能が内在されていても不思議ではないのです。詳細は省きますが動物の体内には微生物など他の生物由来の器官が組み込まれています。例を挙げると、長い生物史の中で環境に適応するために動物や植物の細胞が微生物を取り込んだ、あるいは微生物が動物の中に入り込んだという生存延命現象です。植物の葉緑体や動物細胞内のミトコンドリアの由来などが示す生物界の共生、すなわち生命現象の積み重ねの実態が然りです。我々のゲノムの中にすでに位置を占めているHERV(ヒト内在性レトロウイルス)の存在なども然りです。今はまだエイリアンと称する不明なもの達との共生が無くしては植物も動物も自然界では生存しにくい仕組みに至っていると考えられるのが現在の進化上の自然の姿なのです。異なる種がお互いに相手から利益を受けるという共生の関係がこの進化の過程でいかにして作られてきたのか、これからも解明されることが多々あるでしょう。そしてこれらの事象が、我々人類が生き残るには何が本当に大事なことかを教えてくれるであろうと私は思っています。

このような見方ができるようになったのは私の人生ではだいぶ経ってからであり、若い頃はもっぱら動物、中でも人間が進化の先端にいるような考えを何も疑いもなくしていました。今から一世紀前の1908年に免疫の研究成果でノーベル生理学・医学賞を受賞したE・メチニコフが、フランスパスツール研究所に所属していた1892年に「炎症の比較病理学」という著書を出しています。彼はその書の中で病理学と生物学の密接な関係を説き、自然界の様々な生物の観察や緻密な実験を通して「炎症」という病理現象を克明に解説しています。私もその素晴らしい論文を読んでいながらも、自らの研究は比較解剖学的に動物の域を出ずに、理学や農学の領域である植物生理学の分野まで探索し、必要に応じて協力を求めるというような学際的な思考と行動が乏しかったわけです。これは、まさしく基礎学問の研鑽が足りないことに起因することで、科学的に、さらには人間的に偏狭であった、今思うと言うなれば浅学非才の輩の域を出ていなかったわけです。現役を辞し、今こうして自然の中で、自然と一体となって行動している内に、自然そのものから諭されたことはこのことなのです。

死ぬまで勉強

古代ギリシャの医者ヒポクラテスが次の言葉を残しています。
Vita brevis, Ars longa
(人生は短く、技術(医術、芸術)は長い(習得に長い年月がかかる)
技芸のみならずあらゆる分野においてそれを極めるためには学ばないとならないことが沢山あります。それにしては人生は確かに短いとこの歳になって思わされています。そして、何はともあれ「何に付けても死ぬまで勉強!」だとも思っています。
これからの若い皆さんはぜひ今の時間を大事にして、自分の求めることを広い視野をもって「あきらめずに希望を持って」続け、将来は回顧ではなく懐古に浸れるように努力されることを願っています。