不毛な議論の果てに

当節の世間をにぎわす報道やちまたの交信をみていると、本当に現場のことを知って行っているのか、そのための努力をしているのかが疑わしい内容が多くなっていると思うのですが、そのような情報でありながらも社会が取り上げ騒いでいる風潮を私は非常に心配しています。現場を踏まないで出てくる意見は信頼するに足りないからです。
いみじくも、昔、政治家が発した言葉で『理屈はあとから貨車でついてくる』のごとく、枝葉末節の話が次々と作られ拡散していく有様はあきれるばかりですが、先に述べたごとく現場の実態を掌握していなくては根拠のある言動につながらず、それでは人や組織を本当の意味で動かせないということをしっかり認識しなければならないのに、それがどうして理解できずにがんばる人が多くなってきたのか、困った現象です。
同じがんばるのなら、少しでも時間を作って現場に出て、自ら汗水たらして客観的な状況を掌握することに努めるべきであり、それなくしては時間の無駄ばかり生じて事が進まないものなのです。この社会には片付けなければならないことが山積みであるのに、不毛な議論に明け暮れることで貴重な時とお金がどんなに失われているのか、残念で仕方がないのですが、そう思っているのは私だけなのでしょうか。

マネージメントの落とし穴

偉くなってきて、あるいは机の前で「頭」と「口」と「指」だけで日々を過ごしていると犯しやすい間違いは、自分が動かずに指示命令しているだけでも現場からは情報が上がってくるものであり、上がってくる報告を見ることで現場を掌握していると思うようになることです。また、そのために手順書や規則を定め、それに従わせることが上がってくる情報を正確にするための最良の手段だと思うことです。これらは私から言えば正しく錯覚であり、マネージメントの落とし穴なのです。たとえそれが正確な情報であったとしても、刻々と状況変化する中ではすでに通用しない過去の状況となっていることの方が多く、それはあくまでも傾向把握の参考情報であって、やはり自らがそれを確認するために現場に足を運んで実際の確認を怠ってはいけないのです。そんなことをいちいち自分がしなくてもと思って部下の報告だけで物事を処理していると、時機を逸し手遅れになったり、下す指示はピント外れであったりすることが多く、そのレベル(人任せ)ですから現場からは軽んじられ、当人は面中腹背にも気が付かなくなってくるものなのです。
人というものは、相互に資質を認めていないといくら規則を強化してもその通り動かないものであり、そのために組織で問題を制御する仕組みを作るわけなのですが、そのマネージメントの基本を理解していないとそれさえ有効に機能しません。これまで私が唱えてきた私たちの身体の生理学的仕組み、例えば「実質と間質の構造と機能」などのメカニズムを理解し考えを巡らせば、このようなことが分かるようになるはずなのですが残念なことだと思っています。
中途半端なエリートコースを歩んで、ただ前だけを見て高見にのぼると、周囲や足下に自分を支えてくれている現場があるということを見失い、そのため真の協力を得られなくなってくることにも気が付かず、結局は孤独にさいなまれ、遅かれ早かれ足場が崩れて転げ落ちるのが世の常なのです。
現場(組織)というものはまさしく生き物であって、机上の知識や理屈では簡単に割り切れないものであることを理解し悟れないのはなぜなのか。それは自らが「現場で真の苦労をしたことがない」ということにつきます。それも一時の生半可な苦労ではなく、年単位の期間を現場で、そこで汗する人達と心血を注いで働いた経験がないということです。
実際の現場において、現物・現象をみて、その現実を身体で知ることを通して、そこの原理、原則を認識できるようになるには、どんな人であってもそれ相応の期間を掛けた実体験が必要であり、頭の中(理屈)だけではその感性(⇒人間性)は身につかず、挙げ句の果ては現場の言いなりになって墓穴を掘ることになるのが落ちなのです。
また、たとえそういう機会があったとしても、その時期を無為無策、不平不満の状態で過ごすのと、いざという時のための人間修行の場だと意識して過ごすのとでは、そこで身に付くことが大きく異なりますのでともかく素直な心がけが非常に大事なのです。そのようなことから、いにしえの格言ながら「臥薪嘗胆がしんしょうたん」とか「苦節」という言葉はいつの時代でも貴重な心構えなのですが、今の時代でその言わんとしている意味を理解しそれに耐えられる人がどれほどいるのか心配です。
そういう経験がある人は現場を感じ取れる見識が身体に備わってきますので、入ってくる報告の判断力は鋭くなり、いい加減な内容や作為的な報告は瞬時に見抜くことができるようになれるのです。そうでなくしていくら現場の非を責め、規則を強化しても的外れであり論外なのです。
以上のことは、評論家としてではなく私自身が実務家として過ごしてきたことからの、いわゆる「叩き上げ」の意見であるということをご理解の上、特にこれからの人達は参考にしてもらいたく思うのですが、そのために私の若い時代の経験話を以下に付け加えておきましょう。

心底思うべきこと

先ず、私自身が今でも大事に思っていることは、「これまで多くの方々に厳しく育てられお世話になったからこそ、自分はなんとかここまでやってこられた!」ということです。この言葉は客観的にみれば当たり前のことで本論に関係ないことだと思われるかもしれませんが、普段自分が心底素直にそう思っているか否かがいざという時の判断や行動に大きく影響する、いわゆる行動原則であるということから敢えてここに書いたわけです。
さて、もうだいぶ前になりますが私の30歳以前は一介の学究の徒として過ごしていましたので、社会人としてはまったく世間知らずであったと思っています。その後、考えることがあって意を決し実社会に出たわけですが、門外漢でかつ生来愚鈍なたちであったこともあり実際の現場では非常にきびしくしごかれた時期がありました。当初から自らもそれなりの組織の長ではあったものの、Topのところに出向くと必ず次々と事細かな質問を浴びせかけられ、それに即答できないと「普段何をやっているのか!」、「それでも長か!」と罵倒される苦しい日々が続きました。現場の実績値を事細かに暗記して行っても、その裏をかくような問いかけで、数値の暗記や中途半端な現状認識ではとても太刀打ちできませんでした。時には突然 私の管理する現場に来られて「案内せよ」とのことでお連れすると、どこでもズカズカと入って行きます。そして特に私が普段掌握していないような場所に行き、鋭い質問をしてきます。どうしてこのような場所が分かるのか、逆に教えられる始末で恥ずかしく、居づらい思いをしたことも一度や二度ではありませんでした。
その苦悶と反省の日々の中から、どんなに忙しい時であっても部下の報告だけを鵜呑みにせずに時間を作ってはひとりで現場を巡回し、状況変化の掌握を重ねることに努め、それを自分の言葉で話せるように心がけました。そしてその所感を毎月数百人の現場の従業員を前にして語り聞かせ、彼らの反応を見ることを続けました。
その甲斐あってか、次第に現場の所属長より現場の内容を把握できるようになってきたわけですが、その効果と秘訣を簡単に表現すると次のようになります。

三現(現場、現物、現実)主義が身につくと

・局所にとらわれず全体を、目でなく身体で掌握できるようになった。
(音、匂い、振動、温湿度、清浄度、人の動きや表情、その他の色々な事象が私に物事を語りかけてくれるようになった)
・生産現場だけではなく、事務所においてもその雰囲気でちょっとした変化も身体で感じとれるようになった。
・現場の人達の変化(体調、感情の変化、組織の調和具合)も感じ取れるようになったこ
とから、生産性、品質の生の姿が読み取れる様になり、それと諸データの内容との整合性
を即座につかめるようになった。
・現場の現象(実態)と報告される日報や集計データの違いを見つけることが早くなり、何を皆に指示すれば良いかが、身体から湧き出てくるようになった。
・特に大きな収穫は、人の本当の声は現場に行くほどよく入ってくるということ。(それは自分にすり寄ってくる人の話や甘言を避け、分け隔てなく声をかけ、時には飲食を共にして自分を理解してもらうことに心がけたことの効果もあったのでしょう。要するに今思えば当たり前のことですが、事実を現場が教えてくれたわけです。)
その内に、以前は数字の羅列としてしか見えなかった月次の諸データがあたかも物語のように読めるようになり、その文字や数値の行間や裏に当該現場の人間達や動き、設備や品質の状況などがイメージ画像として浮かび上がるようになってきました。要するにその時々の現場の実態をパターンとして認識し、その像の変化から予測される数値や状況記録が感じ取れるようになってきたわけです。
そうなってくると、Topのところに行くにしても頭への数値の詰め込みがいらなくなり、頭の中に写し取った映像の中からパターンとして浮かんでくる現状を言葉に表して率直に報告することで質問にも即答できるようになってきました。そのうちにTopからの現況質問も少なくなり、先の戦略・戦術に関する確認や意見聴取のほうが多くなってきたことを覚えています。
そのようなことで、途中入社で門外漢の自分をそれまでよくぞ我慢してたたき直していただいことに対して、今もってもありがたく感謝の念が尽きないのです。
その後も国内外のその道の先輩たちと仕事を共にする機会を得ましたが、どの道においてもプロの力量というものはすごいものであり、現場、現物、現実の掌握力には目を見張るものありました。このようなことで色々な場で人生修行できたことが走馬灯のように思い出され、ありがたいことだと思っています。

「自分にとっての現場とは何か」を悟り、そこから学ぶこと

以上、私の駆け出しの頃を尾ひれを付けずにお話したわけですが、人それぞれ能力、性格も違いますから、現場の掌握力を身につける方法は様々であるはずです。そのようなことですから、ここでお話した内容はあくまでも参考事例として、ともかく現場をよく知ってものごと取り計らうことが大事であるということを認識し、そのためには自分はどういう手法をとるかということを真剣に考え実践する中で身につけてもらいたいと思います。
確かにそれを実行するには時間や手間がかかりますが、その苦労は必ず報われ、現場があなたを救ってくれるようになるでしょう。この機会に「自分にとっての現場とは何か」とじっくり考えてみると私の言っていることがきっと分かってもらえると思います。

たまたま私は自然科学出身であったことから「現象から事実を知る(学ぶ)」ということには違和感なく対応できたのですが、その秘訣と言えば「物事に先入観や偏見をもたず素直に、すなわち虚心で向かい合うこと」であり、手を抜かない、労を惜しまないことだと私は思っています。物事や人に真摯に向かっていると、その内にいつのまにか色々なことが見えてくる、聞こえてくるようになるもので、そうなる自分から発する言葉も気張らなくても出てくるようになったわけです。
以上のことから、物事には王道はなく、何事も虚心を持って向き合い、現場となれ合いのない緊張ある信頼関係を築くことに努めると健全な組織が育ってくるということを本報のまとめとしたいのですが、私にとってはそれを諸先輩が現場を通して身体に染み込ませてくれたわけであり、本テーマを書くに当たってこのことをこれからの皆さんにもお話ししておいた方が良いと思って筆をとったしだいです。

「パターンの認識」と「イメージング」について

なお、先の文章の中で私が使った「パターンの認識」とか「イメージング」などの言葉について、皆さんの理解のために、そこに含めた私なりの意味合いについて補足説明をしておきましょう。

例えば、交響曲を演奏する楽団のことを考えてもらいたいのですが、沢山の楽器を演奏する人達のためにその役割に見合った楽譜が各演奏者の前に置かれています。それらには大変な数の音符記号が記入されており、演奏者はそれを確認し、周りの音とも調和させながら楽器を奏でています。しかし、指揮者はそれら楽譜の中の一つ一つの音符を追って積み重ねるようにその曲を再現しているのではなく、たくさんの楽譜が構成する曲全体をパターン(多分、動画的イメージ)として頭に浮かべ、演奏者達をドラマの出演者のごとく調和(harmonize)させながら自分のイメージを環境空間に描き出して、観客の頭の中に叙情的物語を感じさせていると私は思っています。
それと同様に、沢山の因子で構成された現場や人の集団(組織)をその個々にとらわれるのではなく全体を動的パターンとして頭の中に写し取るように認識することで、その中から個々の変化も察知(呼び出すことが)できるようになるということが先の話で私が述べたかった意味合いであり、それをもとに数値や図表としても細かく表現することもできるようになるということなのです。そのためには、どういう状況になった時にその実績がどういう数値になるかという基本的な姿を普段から数値図表としても頭に覚え込ませておくことが大事であり、それと現場の変化を頭の中でパターンの変化として比較できるようにしておくことです。そうするとその変化が必要な時に、瞬時に、定量的に言葉として発せられるようになるのです。そのためには常日頃の現場の観察が非常に重要な要素になるのです。
別な表現をすると、ソロバンの得意な人が暗算するとき、頭にソロバンを描いてそれをはじき、頭の中のそのソロバンの変化像から数値を言い表すとのことですが、それとも相通じること思って頂ければ良いでしょう。
めんどうな理屈はともかくとして、何事も必死に訓練、努力するならば、「個にとらわれずに総体をとらえことで、個をとらえる」という物事の掌握力が身につき、そのことで全体をマネージメントするための精度が高まるということを皆さんにお伝えしたくこの表現を使った次第です。

ともかく一回や二回ではなく、暇を作っては現場に通いその実態を頭に刻むことが基本なのです。
また、上記の話の中で使った「現場」とは、その当時の自分の守備範囲であった生産拠点に絞って話をしましたが、その後はそれをユーザー(市場)、関連会社(仕入れ先、協力会社など)、海外赴任におけるその地域の状況などへと拡大展開させ、それを自らの「現場」として状況把握に務めたということも付け加えておきます。
以上、参考になれば幸いです。