目次

1.たとえ移民政策でないとしても
2.自然界での共生の実態
3.共生する理由
4.共生の条件
5.共生の問題点
6.本件に関する日本人の長所と短所
7.本能と理性のせめぎ合いを乗り越えて
参考文献

1.たとえ移民政策でないとしても

最近の世界動向をみていると、「異なる人種民族が身近で共に生きるということが、本当にあるべき姿なのか」、「それを可能にするにはどうすべきなのか」などについて、理想論(建前)ではなく現実論(本音)としてあらためて考えてみる必要があると私は強く思わされていることから、このレポートを書いたしだいです。
(*ここでは、人種とは人類を骨格、皮膚、毛髪などの形質的特徴によって分類した生物学的特徴による分類区分単位。民族とは言語、宗教、生活様式、歴史、価値観など文化的特徴を共有するひとまとまりの人間集団と定義します。)
地球上に住む人達は、元々は食料や気候などの状況により自由に移動し、その集団の衣食住に見合った生き方をしていたことが分かっています。それが、集団内の権力闘争やそれを利用しようと目論む列強の勢力争いが激化するにつれて、先住者にとって不合理な居住区の分断や強制移動、異文化の強制導入による順化や血統希釈政策などが行われてきました。このようなことが原因で起きた紛争が今現在でも続いているのですが、近年この民族紛争を治めるという名目で起こした行動の多くもさらなる紛争を呼び起こし、自分達が優れていると思っている人間の愚かさを背景にしていることもあって何人もその争いに終止符を打てない状況になっています。
このような民族紛争を引きずっている人達がまだ世界各所に分散し、その数が多いということ、そして後述するように私たちも生物の一員であるということから、この状況を無視して自分都合の異人種、異文化の導入を安易に進めると問題が発生する危険性が大きいと私は思っています。日本政府も色々考えて「移民政策は執らない」と表明していますが、たとえ暫定的な人手不足解消策であっても一定期間は異文化の人達と共に過ごすことになるのですから、共生の条件と限界を無視して事を進めるともめごとが起きることは必然であり、その処置を誤ると国内不安のみならず、先行き国家の信用につながる問題も発生しかねないということを十分に考慮しておく必要があります。

異文化の摩擦問題は、理性に裏付けられた良識である程度は調整可能だと思いますが、私たち身体の内面が訴える本音すなわち生物学的違和感を理性で抑えていると、そこにストレスに対する反作用、言い換えれば適応症候群におちいる人達が出だし、それが同種の集団内に感染症のように広がり、その処置を誤ると闘争に発展するという過ちを世界史の中で繰り返してきたということを無視してはならないのです。私たち人間に内在する生存するために仕組み、すなわち恒常性(ホメオスターシス)を乱さずに過ごすためにはたとえ身内であっても生物学的不可侵領域が守られてこそ良好な関係が成り立つということは自明の理なのです。

はたして今、たとえ短期間であっても異人種や異民族の人達と共生するに当たって、この核心的な課題について注意深く守り合う仕組みが用意されているのか、そしてもし守られない時にどうすべきかについてその社会的解決策を持って事に当たる準備が整っているのか、残念ながら日本はこのことについて不十分であるということを自覚し、今こそ総点検する必要があると思います。
もちろん、私は、既にこの事についての活動があり、ご尽力されている方々もおられるということを承知してはいますが、上記のような背景ですのでそれを後押しし、さらなる展開が起きることを願っての私の発言であることをご了解ください。

大事なことですので繰り返しますが、私がこのような意見を発する理由は、異常を発生させないための予防組織の編成とその教育訓練が不十分なまま当事者間のモラルに頼るに任せておくと、外来者とのトラブルを防ぐことができないということを、日本社会すなわち日本の国民が真に理解している人が少ないと自分自身の海外経験も踏まえて心配しているからです。
そのような理由から、今回はこの「共生symbiosis」ということの根底にある問題について、先ずは生物の基本原則の観点からその条件と限界についてお話しし、それをもとにそこに内在する問題点から、私たち人間、特に日本人に求められている課題について考えるべき材料を提供したいと思います。

2.自然界での共生の実態

自然界では「共生」は何のため、そしてどういうルールで行われているのかを知ることは今後の人間世界の安全を保つために大きな意味があると考えますので、先ずは生物学ではその実態についてどのように解説されているのかを総説的に解説します。
生物に共生を促すものとして生存競争という強い誘因があります。ダウインは「種の起源」1)の中でこの生存競争こそが進化の原動力になっているということを述べています。すべての生物はたとえ同種間であっても個体数が増えてくると食料をめぐって競争が始まり、そこで勝ち残るものは他のものより能力や体力の何らかの因子で勝っているものがあり、その生き残ることができる力がその個体や集団の進化を促すということになります。このことは、たとえ理性的になれる人間集団であっても飢饉や戦争などの極限状態の中で現れる現象であり、そこで発生する争いの結果が生存やその後の発展を決めるというようなことが歴史的事例として残っています。

ここで大事なことは異種あるいは同種の間における勢力争いよりもっと大きい競争誘因はその原因ともなる環境の変化であり、それに適応できたものが生き残ることができるという、いわゆる自然選択です。生物には常に突然変異が無目的的に起きているのですが、自然環境の厳しさがその出現結果を選択することで進化に方向性を与えます。すなわち、その動物の形態や機能がその時の環境変化に見合ったものを生き残らせ、結果として生存確率や子孫数に影響を与えるわけです。環境の変化ということは頻度からみると必ずしも多くはなく、時間を掛けて長い生物史の中で生物を変化させてきた誘因なのですが、その影響は多大でした。かといって今でも身近で頻繁に起きている病原微生物や農業昆虫が薬剤に対する耐性を獲得する現象もまた自然選択の一現象ですので、このように生物史から考えると短時間の間に起こる進化もあるということを知っておくことも大切です。

生物は環境の変化や異種からの攻撃に対応するためには、単独よりも必要に応じて集団化するという生き方も進化の一つとして獲得してきました。現に私の周辺でも冬が近くなるとどこからともなく集まりだして集団を作り出す昆虫や動物達をよく目にします。しかし、一方では同種であってもその個体数が増えると食料確保のための競争者が増えることになるので活動期を前にした春になるとそれぞれの場所に分散します。そうすると競争を避けた単独行動は異種との競争や環境適応に対して危険が多くなるという問題を抱えることになります。このようなジレンマに対処していくうちに、その種ごと独特の生き方、さらには同種であっても体型や機能を変化させて捕食領域や食べるものを変えるということが生存競争の中から起きてきたわけです。その過程で突然変異も関与したのでしょうが、それが環境に適応できなければその内に絶滅することになります。このような強い選択圧がなしてきた進化の結果を博物館や生物史の映像を通して私たちは実際に知ることができるわけです。

自然界においての生存競争は、前述のように異種間だけではなく同種間においても食料生殖相手、そしてそれらを確実に行うためのテリトリー(勢力圏)の争奪がもとで行われるのですが、単独より集団の方がそれに費やす労力や危険度(コスト)が少なく、成功確率(利益)が高くなるということも大きな進化の誘因になってきたことが考えられます。このようなことが生存競争を有効にするために共生をうながす現象の表れだと考えられるのですが、自然界の実態をみてみると同種間よりも異種との間でつくられる共生関係が意外に多いことが分かります。それは、持てる能力、すなわち相互に利用し合える能力は異種間の方が多くあり、提供するコスト(労力や危険度)を上回る利益(食料や安全性)を得られるからであって、動物達はそのために様々な生理生化学的な工夫がなされていることが報告されています。2)

さて「共生」についての生物学的基本内容については皆さんもすでに学生時代に学んだはずですので復習として以下にそのあらましだけを記載しておきます。それら共生に該当する動植物をよく知りたい方は太文字で書いた共生名を検索サイトに書き込むなどしてその実例を確認してみてください。
相利共生mutualism:異種生物間でお互いに利益を得ている生き方で、アリとアブラ虫の関係や、蜂、アブ、蝶と植物の関係など自然界では非常に多くみられる現象であり、相手なしでは生存が難しい共生方法です。中には相手の細胞内に入り込んでその生命現象に直結しているような生き方まであります。(例:動物細胞内のミトコンドリア、植物細胞内の葉緑素など)
片利共生commensal:一方に害を与えることなく片方のみが利益を得る共生方法です(例:サメとコバンザメ)。なおこの中には、移動のために他の動物に付く便乗phoresy, 他の生物を住みかにする着生inquilinism、 他の生物の死骸を利用する変態共生metabiosisなどがあります。
寄生parasitism:片方が相手の生物に栄養や安全性を依存して生きる関係で、その多くは宿主が害を被る関係なので共生とは言えません。(例:各種寄生虫や病原菌。なお生体内外に常在する微生物は宿主との共利共生関係を築いているものが多く、そういう姿は寄生とは言いません。)

なお、これらの関係がすべて一箇所で行われている場所がありますので覚えておかれると良いでしょう。それは大きく成長した樹木です。冒頭に挿入した写真をご覧ください。以前、私が住んでいた家の庭に自生していた樹木で、そこにはクヌギ、コナラなどの広葉樹が数本鬱蒼と茂っていたのですが、その内の一本の幹を撮った写真です。当時で推定六十数年の樹齢でしたからまだまだ勢力旺盛でした。そこには根元から最上部までの各所に様々な動植物が前記の関係を持って住み着いていました。写真には各種動物までは写っていませんが、植物については見るだけでも多くの種が共生していることが分かると思います。写真の中程には「フウランNeofinetia felcata」(野生蘭の一種)が写っています。いつのまにか生えてきて可憐な花を咲かしたので撮ったのですが、台風で飛ばされないように麻紐で支えてありますので、ここだけは人の手が少しだけ入っています。
このように大樹には、その地上部には多数の異種植物や各種の鳥、四期折々に訪れ滞在する中小の動物、地下には根圏に常在する生物達(各種微生物、土壌昆虫類、両生類、爬虫類、ネズミ、モグラなどの哺乳類など)が、総体では数え切れないほどの中で、生存競争しながらもそれなりの関係を築いて共生していることを伺い知ることができたのです。そして、それら生物達は時には激しい風雨もある四季の変化の中で相互に無駄を省いた協力関係を築き、月日を重ねるほど落ち着きが出てくるコミュニティーのような自然の姿ができてくるのを観るにつけ、私は時と共に物情騒然さが高まる一方の人の世について色々考えさせられたりしたものでした。

3.共生する理由

これについては先にも述べましたが、生物の共生はどのような理由で行われているのかをもう少し具体的に追ってみましょう。根拠なくして共に生きる道を歩まないはずですので、これまでの研究の中から明らかになっている例を書き出してみます。2)3)
送粉共生:植物と動物に間に広くみられる相利共生、すなわち双方共にメリットがある関係を組む方法です。植物が色、形状、香りなどで誘引した動物に彼らが必要とする蜜や花粉を食べさせることで、その身体にも花粉を付けさせ運ばせて離れた同種個体との受粉を可能にする方法、すなわち種の遠隔伝搬を通して近親交配を避け、種の保存として安定した交配を行うというような関係です。香りと述べましたが、その内容は植物の種によって異なる独特の生理活性物質であり、それを必要な時期に分泌、発散させて自らの種の保存に適した相手(昆虫や動物)を誘引し、生殖(受粉)の成功率を高めるという技を進化させてきたのです。ここで使われる生理化学物質は非常に多様であり、私たちはその分析結果から今でも多くの知恵を授かっています。動物のコミュニケーションにも性ホルモンなどの生理活性物質が重要な役目を担っていますが、人間においては人工的な意思伝達ツールや香水などの人工的化学物質の多様によってその能力が使われなくなってきていることから、本来保持していた自然の感受性が男女共に退化してきているということはご承知のとおりです。
防衛共生:シジミチョウやアブムシがアリに蜜のある場所を教えたり与えたりすることで代わりに外敵(捕食者)から守ってもらう、いわゆるボデーガード(雇兵)に対する栄養報酬の提供を行う関係です。
掃除共生:掃除魚とも言われるホンソメワケベラというベラ科の魚がこの代表例ですが、自分達が逃げ隠れするのに都合のよいハタ科大型魚の口腔内寄生虫や体表面の剥離組織などを食べて除去することで行われる共生関係です。なお、このハタとホンソメワケベラの協力関係は必ずしも安定したものではなく、ベラの働きぐあいにより宿主のハタから懲罰を受けたり、別の掃除魚に交代させられたりするという現実的な観察結果も照会されています。2)
栄養獲得型共生:キノコと樹木(マツタケと松林、モミタケとモミ林、ハナイグチとカラ松林など)の間でみられ、有機物を腐蝕する能力を持つキノコと特定の樹木の間で栄養を供給し合って生存、増殖することで保たれる共生関係です。
環境獲得型共生:もともと自然環境に存在した細菌が何らかの過程と仕組みにより動物体内(主として消化管内)に入って常在化し、宿主から増殖の場と必要な栄養を提供してもらう代わりに、宿主の消化の補助や必要栄養物質の供給を行うという共生関係です。この中のひとつであるヒトと腸内微生物の関係に関する研究は古くて新しい分野であり、培養が難しい嫌気性菌の研究や生化学分析技術、免疫科学の研究などが進むにしたがい人の寿命延長に関する大きな成果が期待される分野です。また、地球環境研究や深海生物研究においてもその進展に伴い生物同士の新たな共生関係が解明されていくでしょう。

4.「共生」の条件

以上の内容からお分かりのように「共生」が有効に成り立つ条件としては次の二つのことが重要です。
1)「共生」するためには異なる者同士がお互いに有形無形の利益を受けられる関係が築かれることが必要。
2)それが片方だけに有利な関係、すなわち片利共生だとしても、宿主に不利益にならない関係、言い方を変えると宿主が負担にならずに見ていられるような関係が保たれること。

このようなことを踏まえると、共生関係をとるためには双方に利益があり、それにより相手に裏切られることが少ない「相利共生」というのが一番安定した関係であることが分かります。正反対となる「寄生」という関係においては害を受ける宿主が常にその寄生者をあの手この手で排除する行動を取りますので、お互いに緊張関係が生じることから共生とは言えないのです。そして、うまく寄生できた寄生者も宿主が弱ったり死滅したりすることでその関係は終わることから乗り換えの準備が必要です。そのため、寄生者は寄生している間に分裂、産卵、増殖などをして他の宿主に乗り移る準備におこたりなく、状況に応じて世代交代しながら宿主を代えて生存していく方法をとるものが多いのです。中には宿主の神経系を麻痺させ自分の存在を分からなくさせたり、自分達に都合に合わせて宿主の構造と機能を変化させたりする強者もいます。アニサキスなどは自らの成長サイクルに合わせ宿主を変える方法をとりますが、それは海洋魚やそれを食べる大型海洋動物の食性を利用した方法です。他にも同様な寄生手段を取る寄生者も多く、それらの中には人間にもいわゆる「病原性寄生虫」として害を与えるものが存在します。外洋や河川の中、あるいは遠方に渡る鳥類を利用して行われるそのような生き方をどのようなことで獲得したのか、それも生き残りのための進化の一つかと思うと感心させられます。
考え方によっては、人間も長い歴史の中で地球に寄生する中で宿主である地球におかまいなしに進化してきて、そのために宿主たる地球が被害を受けていると言っても良いのでないかと、私なりに思っています。

ここで付け加えておきたいことは「片利共生」の中には一方だけが積極的に奉仕するような共生関係があるということです。そのことについてW.D.Hamilton3)包括的適応理論Inclusive Fitness Theoryの中で説明していまが、それは行為者が積極的にコストを負担し被行為者が利益を得る関係「利他的行動altruism」のもとになる理論であって、これまで述べたダウインに端を発する共生理論だけでは説明しきれなかった関係を解き明かした内容として、異論を起こしながらも生物学以外の社会学やコンピューター分野などでも参考にされて今に至っています。
この利他的行為には「親による子の保護」、「配偶者の保護と防衛」、「子が親やその他の血縁者を守る行動」、「狩りなどにおける協同作業」などが該当します。これらの多くは血縁者間で遺伝子が共有される、あるいはそれに準ずる共生者との間で行われる関係とされており、哺乳類のみならず昆虫その他多くの生物種の中で実際に見られる関係です。人間においてもこのような関係は必ずしも遺伝子が共有する血縁関係内だけではなく、幼児期から一緒に生活してきた関係や、若い時期に厳しい環境で共同生活をしたことのある間でこの利他的行動が身に付くことが明らかです。
私は、この利他的行動の生理的メカニズムをより深く解明して、社会活動などに科学的に応用していくことが異人種や異文化の人達と安心した共生関係を成立させる助けになるのかもしれないと思っています。しかし、そのためには先ずは当事国が物心共に優れた国に成長しているということが先決となるでしょう。

5.「共生」の問題点

以上、「共生」ということについて、生物学的な側面からその実態について説明してきたわけですが、このことは同じ生物の一員である人間においても当てはまるということからであって、これらのことを念頭に置いて今まさに国内で取り組む人手不足解消のための外国人導入政策を進めなければいけないということが私が本報で述べたい主旨なのです。また、このことを一般の方々に理解して頂くために、過去に日本がこのような政策で失敗した事例と、この政策を進めた国がその後どういう問題を引きずっているということについてお話ししておきましょう。

その一つは、日本が1932年から1945年にかけて「王道楽土・五族協和」という国家的一大キャンペーンを掲げて満州帝国を成立させた事例です。五族とは日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・モンゴル人を指し、これら民族が異なる人達が居住する地域を共存共栄させるための新国家建設という構想事業として、日本国が主管となって進められました。しかし、その裏にはユーラシア大陸東部に位置する諸国(中国、ロシア、日本など)の勢力争い、さらにその背後で暗躍する欧米列強の覇権争い、加えて日本の国内問題の解消策など、本音と建て前が大きく乖離した政策が複雑に仕込まれていたこともあって、結局はその思惑が外れただけではなく、その後の日中戦争、そして太平洋戦争の火種ともなった歴史的一大失敗事例です。4)

もう一つは、私自身が欧州のベルギーに居住していた時期に経験してきたことなのですが、今から二十年以上前からすでにドイツ、英国、フランスなどで社会問題化していたことです。当時、私が特に身近で強く感じたドイツの例をあげて説明しますと、「きつい」「汚い」「危険」などの仕事や、清掃や衣類クリーニング、食堂などの労働力をポルトガルなどの外からの人達に頼ってきたことによって、その当時ですでにそれらの職業の多くがそれら出稼ぎ者の定職となって、家族をつくり定住してドイツ国民となってきていました。英国やフランスなどの旧宗主国においても、過去の植民地から来る人達が低賃金で働くという使いやすさから安易に仕事を任せてきた結果、それらの国内では時と共に単純労働業務は植民地から来た人達に取って代わられ、経済が冷え込むにしたがい自国民の就職難、そしてゼネストの頻発、文化摩擦の増加、排外主義者の台頭という傾向が出だし、結果としてそれが国内経済と治安の安定化のための障害になっていた状況を目の当たりにしたわけです。当時の私はよもや母国日本ではこのような事は起きないだろうと他人事のように思っていましたが、時が経った今そのような現象が自国内でも起きる徴候を感じることから、我が国が同じ轍を踏むことがないように心配しているわけです。
一方、すでにこのような問題を経験してきた欧州主要国や米国などでは、労働力確保を進めることで発生する問題を回避するために外国からの入国者に対する審査や受け入れ者に対する語学や実務研修、受け入れ先の法令違反の監視制度などが良く練られ実行されていたことを知っており、特に米国ではさすがに移民の国と思わせる内容であったことを覚えています。

そのような内容であってもそれらの国々は、今現在各種問題発生により排外主義が強くなっているわけで、この状況を他人事とせずに、その実態をしっかり調べ、国や役所任せだけではない時流にあった体勢を、国民が一丸となって築く必要があると私は思っています。被害は国民皆に降りかかるわけですから他人ごとではすまないのです。

何はともあれ、世界の人々の多くは、できれば皆が協力し合って共に生きるということを願っているはずです。ですから、共生ということには面と向かっては反対しないものの、やはり歴史的事実や現実に起きている恩を仇で返すような行為や、思いもよらない文化や習慣の違いに疲れや恐れを感じて共存ということを警戒し、それを避けたいという本音があります。さらに自分達の生物としての本性というものを内々知っていますので、共生ということに本能的にそのもろさや危険性を感じ、それに安易に乗らないのが自然の流れと言わざるを得ないのです。

6.本件に関する日本人の長所と短所

日本は地政学的にみて周辺他国とは海に隔てられ、欧米諸国とも遠く離れている国ですので、国民の多くは現在でも異文化というものを間接的かつ断片的にしか知る機会がなく、その多様性や内面実態について実質的な判断力を持っている人が少ないのが現状です。それは仕方無いこととは言え、元々総体的にシャイな性格である上に見知らぬ西欧人に対しては性善説で考える人達が多く、異文化それぞれに異なる価値観があり、日本人にとって危険性があるものも少なくないということにまだまだ理解が少ない、あるいは無頓着であると私には見えます。言い換えると、誠実に応対することで外国人達も自分達と同じ解釈で理解し合えると思っている人が多いということにもなります。
反面、自分達が誠意をつくしていると思って行った行為が理解されずに裏切られたような時には、これは自分達と違うと判断してしまうまでの時間が早く、時間を掛けて分かり合うよりも、一方的な判断で拒否や排除などの排他的行動に変わりやすいという傾向もあります。これを私流に分かりやすく表現すると「寛容で我慢強い国民ではあるものの、自分達の誠意が裏切られ、不審な行為を感じると堪忍袋の緒が切れるまでが早く、考えや態度を大きく変える傾向がある」ということです。
小さい頃から周囲が他民族、多人種で構成されている社会、例えばニューヨーク、パリ、ロンドンなどで暮らす人達とはまったく異なり、我が国にはその社会ルールや制度がまったく築かれていないに等しいのが現状なのです。
サラダボール的に異人種、異文化の人達が混在する環境に慣れている彼らは、普段から自分の意にそぐわないことは我慢せずにその時点で遠慮なく自分の意見を主張し、相手に自分を分からせる努力を怠りません。この辺りの日常行動が子供の頃から身に付いており、日本人とはっきりと違うところなのです。日本人はこのような発言や議論を文句や言いがかりと捉えやすいのですが、「文句と意見は違う」のです。私たち日本人はたとえ個人的には馴染まなくてもこのような風習に馴れる必要があると私は思っています。

諸官庁や商業関係の禁止や警告についての文言も国際的にみるあまりにも遠慮気味で、いったいどういうことなのか判断し難い表現が多いと思います。「どうぞやらないようによろしくお願いします」ではなく、「やってはいけない」、「やると、こういう理由で処罰します!」というような単純明快な表現に変える必要があり、たとえ変えても見下げた内容でさえなければ失礼でもなく、対外的には問題が起きないと思います。
話せば分かると思っても、文化が違う人達は判断の価値観や身に付いている表現方法が違うのですから、肝心なことを理解させるための工夫をもっと凝らして、表面的なコミュニケーションで終わらせないようにする必要があります。人手不足やインバウンド効果などの短期的期待のために、風習の違いを我慢するだけで受け入れた海外からの人達と交わっているうちにストレスがたまって、打って変わって排他的になる人が出てくることが十分に考えられます。
観光産業や人手不足を補う経済的政策として異文化、異人種との交流を進めるに当たって、本当に意味でのその取り組みには理想論ではなく現実論としてその根柢にある問題点を知り、社会全体で工夫することがまだまだあるのです。

7.本能と理性のせめぎ合いを乗り越えて

言っておきますと、私は海外の人達の導入に反対しているのではありません。
日本には異文化の人達に誤解されやすい言動がまだまだ多いということを知ってもらいたくて以上の話をしてきたのです。それは地政学的にも歴史的にも様々な外国人に直に接する機会が少なかったということが一番の原因だと思いますが、それが国民の体質ともなっていますので短期間に改善できるものではないと思います。そんなことで思い込みや誤解によるトラブルがしばらくは起きることでしょう。
しかし、本報で述べた「生物の共生の条件」を忘れずに対処しながら積極的に外国人と付き合って行くべきだと思います。並行して、文化摩擦を解消するための施策を、お役所を頼るだけではなく民間が協力して工夫を凝らして積極的に準備展開させていくことをぜひお薦めします。

異文化と接するためには感情すなわち本能だけではトラブルを起こすことも多くなりますので、それを抑制するために該当するそれなりの理性が必要となります。「本能」を抑える「理性」の力は教養や人生経験を積み上げていく中で大脳の前頭前野内に定着し、強化されていくものであって、一朝一夕にして出来上がるものではありません。一方「本能」というものは若年時から当人を生理的にそそのかし、言動を危めやすいものなのです。
それを補助するのが社会ルールの整備、教育研修制度などの制度拡充であり、且つそれを見守り定着させていく組織活動の醸成です。
私たち脳内に存在する「理性の中枢」の実体と弱点、そして「本能の中枢」が起こす恐ろしさをしっかり認識し5)6)、異文化に接する時に起こってくるであろう理性と本能が起こすせめぎ合いに負けることなく、諸外国の人達と賢く付き合っていかれることを私は強く願って止みません。

以上、お読みくださり大変ありがとうございました。

 

参考文献

1)C.ダウイン著、夏目大訳「超訳・種の起源」第3章、(2015)技術評論社
2)北條賢「相利共生の比較生理生化学」比較生理化学33巻(2016)p.60-67
3)W.D. Hamilton, The Genetical Evolution of Social Behavior, J. Theor. Biol.,7,1-52, (1964)
4)宮脇淳子「世界史の中の満州帝国」(2007)PHP新書
5)高田紘一「良心はどこで生まれて、どのように育つのか」(2018)Human Reader Part Ⅵ、Amazon
6)高田紘一「好奇心の経過とその功罪」(2018/10/7)MTCJapanブログ記事