クーベルタン男爵の願い

今回、冬期オリンピックの実況を観ていて心が温まると共に、私がこれまで考えあぐんできたことに一筋の光を当ててくれたことを感じ、ホッとしました。それは報道でも取りあげられていたことですが、今回の平昌冬期オリンピックでのアスリート達の振る舞いです。中でも日本の選手達の言動なのですが、個々の努力の大きさもさることながら、競技そのものへの気配り、そして勝負が決まった後の競争相手への思い遣りなど、人として誇れる行為がそこかしこに垣間見ることできたことです。例えばスピードスケーターの小平選手ですが、自分の好記録に沸き立つ日本からの観衆に対し、次のレースの選手に配慮して静粛にするように指サインで促したこと、そのうえ自らが1位になった直後でも2位となった韓国のアスリートに言葉と態度で心からの温かい気配りを見せた姿など、勝負の結果以上にその精神に何よりも快く感じたのは私だけではなかったと思います。日本人としてではなく、人としてこうあるべき姿を若い当事者が皆の前で自然体で示してくれたことを多くの人が賞賛し、それが人々に良い影響を与えるであろうと思っています。いやぜひそうあって欲しいのです。オリンピックの創設者であるクーベルタン男爵(1863~1937)も彼の願っていた精神(下記注参照)が引き継がれていることをきっと喜んでおられることでしょう。
このようなオリンピック精神を受け継いだ美談はこれまでも色々伝えられています。私の印象に残っている一例を挙げると、1964年の東京オリンピックにおいて柔道選手として出場したオランダのアントン・ヘイシング選手の振る舞いです。日本の神永選手と無差別級で決勝戦を戦い抜き勝負を決めた後、オランダの関係者達が歓喜のあまりヘイシング選手のところへ靴のまま駆け寄ろうとしたのを手合図で制して試合上に上がらせず、敗れて居住まいを正して待つ神永選手にきちんと礼を尽くしたことです。
また、今回だけではないのですが、メダリスト達のインタビューへの応答にも共通して光るものがあります。それは、そこに至るまでお世話になった人達に対して心からの感謝の気持ちを真っ先に表していたことです。ともすれば、特に若い時分は、ついつい自らの賞賛に偏りがちですが、厳しい戦いを勝ち抜いていくにしたがいそれを支援してくれている人達のありがたさが身に染みて分かるようになり、促されなくともそこに感謝の気持ちがほとばしり出てくるということは、当人が戦いに向かっての葛藤を通してそれだけ人間が成長し、大きくなったという証拠なのです。このことは本当に大切なことで、世界に通用する「精神的たまもの」であり、メダルよりも価値あるものと私は捉えています。
(注)クーベルタン男爵が残した言葉:
「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく参加することである。同様に、人生において最も重要なことは、勝つことではなく奮励努力することである。肝要なのは、勝利者になったということではなく健気に戦ったということである」
「オリンピックは、単なる世界選手権大会ではない。それは平和と青春の花園である」
「スポーツを通じて世界は一つになる」
「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」

私が考えあぐんできたこと

これに関連すること、すなわち強いて一言で表せば「博愛精神」ということについて、私自身が日頃、まだ「考えあぐんでいる」ことがありますのでこの機会にそれを説明しておきましょう。

私はこれまで自分の著書やここでのブログ記事の中で、日本の常識と世界の常識は必ずしも同じではないので「心を開く」という行為については慎重にすべきだと述べてきました。博愛主義というのは確かに美しいのですが、中にはそれに乗じて悪乗りしてきたり、チャンスを捕られたりすることがこの日本国内でもあるのに国際的な活動をするとそれに翻弄されることがさらに多くなるということを私は実質的に体験してきたからです。しかし、その情況(文化風習)になれるにしたがい、当初は問題と思ったその事が自分の思い違いや心構えに起因することもあったのです。それを話すとこれまで生きてきた長さや活動の広さから話が尽きないのですが、そこまで大げさではなく、日常よく見られるちょっとしたことながら、やはり所変われば物事の進み具合がこうも変わってくるという事例をひとつ紹介しておきましょう。

私が実社会人に出てまださほど時間が経ていない30歳を超えて間もない頃のことでしたが、仕事の関係で米国に出張する機会がありました。それで以前にお世話になった現地の米国人の先生に連絡を入れておいたところ、休日に私の好きな魚釣りを計画してくれていました。それはミシガン湖でのSalmon釣りです。当時でさえ米国では自然環境保護の規制が厳しく、事前の許可証取得と当日の漁獲制限(一人2匹以内)などとルールは厳格でしたが、先生の事前手配もあり何人かの一般釣り客と一緒に乗合船で楽しい気分で沖に出ました。私達の船のルールは、皆が釣り竿を持って各々が勝手に釣り糸を出すのではなく、船頭さんが船尾に数少ない釣り竿をセットして、そこからルアー付きの釣り糸を後方に流して船を走らせながら釣るといういわゆるトローリング漁法でした。そして釣り客は初めに順番を決めておいて、一度釣り竿を上げてしまうと収穫があろうがなかろうがその後の釣り竿を上げる権利は次の順番の釣り客に移るというルールでした。五大湖のSalmonのサイズは大きいのですが入れ食い状態ではないことから釣れるまで時間がかかり、そのため船上の寒い中で自分の番が来るまでけっこう長く待つ情況でした。そのような中でやっと私の番が回ってきてきたのですが、獲物が掛かるまで待っている間に時差の影響もあってか、ついつい眠り込んでしまっていました。
どのくらい時間が経ったのか、周りの騒ぎにふと目を覚ますと目の前で他の釣り客が必死に竿を立ててリールを巻き上げているではないですか。そして、その釣り人は結構なサイズのSalmonを釣り上げ歓声をあげ、周囲の釣り客は拍手でした。
その人は喜び顔で私に向かって「Thank you so much!」と言い、先生からは「Kochan(私の当時の呼び名)、残念だったね~、」と言われました。
まだ状況を理解できないような私に先生は「あまりにもぐっすり眠っていたからね~。次の順番を待つんだ、これがルールなのだから。またチャンスが来るよ。」と慰めて?くれました。しかし、そうこうするうちに釣り時間が終了してしまい、結局私には次のチャンスは回ってきませんでした。
私の常識では(すなわち当時の日本であったなら)、このような時は寝ている当人を起こして魚がかかったことを教えるであろうという自分勝手な思い込みから、その時は大変な違和感と悔しさ、言葉を換えれば不満を抱いたのでしたが、後で落ち着いて状況を判断してみると、決してこれは差別(当時は日本人に対してもそれが残っていました)ではなく、確かにルール通りであり、「これが米国なのだ、否、日本ではなく外国なのだ」とあらためて世界が違うということを認識させられた時でした。
それ以前にも中南米に出張したことがありましたが、その時は文化がはっきり違うことからそれなりの緊張感がありましたが、ある程度分かっていると思っていた米国での、かつ現地人とはいえ良く知った先生もおられたことから、ついつい日本的思考での甘えがあったのだと反省した次第です。
その後、米国、そして欧州など各地で、その地その地の文化、風習などに触れる中で学んだことは、この様な場面で心得ておくべきこと、すなわちLuis Pasteurの言葉を借りると「準備を怠る者にはチャンスは絶対に訪れない」ということであって、「長旅で疲れて眠っていたのだから起こしてくれても良いだろう」などと好意を暗に期待するのはまさしく甘い考えであり、常日頃「やるのであれば、状況を良くわきまえて、それなりにかまえなくては」ということが、私の身に付いた国際感覚そのー1でした。
このことが、「博愛」すなわち「人種・宗教・風習などの違いをこえて、人間愛に基づいて全人類が平等に相愛協力すべきだという主義」との間に差を感じさせていて、果たして自分はどうあれば良いのか、まだ考えあぐんでいると吐露したことの発端となったことなのです。

それ故、今までの私の心の中は「自分の成果については人の良心に期待してはならない」、「そのためには自らを整えることに努力して、そのチャンスに備えるべきだ」、「”あれ”、”それ”というような第三者に不明確な代名詞であっても意思が通じるような文化風習が均一な日本であるならいざ知らず、異文化、他民族との交流の中では予め物事を明確にして、言わなくても分かってくれるはずだというようなことを心から外して物事に対処することが大事である」というように思いを固め、後輩達にもそう語ってきたわけです。
多分、このような考え、態度は、日本国内の一般的な目からみると、「クール」(注:今流行の「格好良い!」という意味ではなく、「冷静」、「冷徹」、「暖かさがない」)と思われるかもしれませんが、仕事上ではそうなってしまい、はっきりしないことを嫌う海外ではその方が通用したのです。

しかし、今、この歳に至ってこれからの若い人達のための新しい世界について思いを馳せてみると、特に次代を担う人達の生き方としては私の心情を乗り越えたもっと柔軟で前向きな方向をたどるべきではないだろうか、かたくなではないもっと先に繫がる考え方と行動のあり方を自分達で模索させるべきではないのか、部分最適ではなく全体最適、世界最適の思考を最優先にして先に繋げることを評価、支援してあげるべきではないのか、というような考え方に変わりつつあるのですが、さりとて世界にはまだまだ色々な国、民族、風習があり、さらには無国籍の不逞の輩がいて、それらが多くの紛争の火種になっていることも避けられない事実があることから、正直言って自分の中ではまだ明解な公私共通な論理が定まっていないのです。

これからへの提言

これまで述べてきましたように、その国、その民族(宗教や生活様式、国家信条などに起因する文化的な差のある人間集団)によって価値観や言動が異なることは避けがたい事実ですので、それを無視した言動は反感、妬み、恨み、紛争を生み出します。ですから、それに配慮することが―たとえそれが身近な間柄であったとしても―これからの国際的活動が盛んになる社会的行動の中では大切なこととなるのです。

和を尊ぶと言いながらも、ただ単純に仲良くしましょうということで無防備のまま手前勝手な解釈でする行為は決して相手に伝わらず、内容によっては誤解されたり利用されたりして、挙げ句の果ては争いの火種になりかねません。このことから、異文化との交渉は本音を隠した、あるいは当方だけが無理に我慢をした妥協は後で必ず問題が再発することが多いということをしっかり認識しておく必要があります。最初は揉めたとしても、そこで明確な意思表示をして相手に分からせる交渉をするほうが正道なのです。目前のタフな交渉に絶えられずに短期最適な思考で国際間の約束を結んでしまい後生に迷惑を掛けている事例がこの日本の歴史上でいかに多いか、過去の前例に頼りがちな我が国の風習は今後のためには改めていかなければいけないのです。

移り変わりが益々激しくなってきているこの世の中においては、前例ではなく、厳しい人生経験と叡智に育まれた人間としての「理性」と「良心」に基づく、その時々にしっかり見合った思考や判断こそが大事なのです。

俯瞰力を駆使して観ていると分かってくるのですが、世界すなわち相対する国や民族にも共通な価値観というものが必ずあるものなのです。それに注目し、しっかり掘り下げることが必要で、目前の成果のことだけ考えて急いではならないのです。端的な例を挙げると「病への対応」、そして「衣食住など生き残るための必須事項」などがそうなのですが、それらを汲み上げるに効果があることは、世界中のどのような人達も否定できない人間として価値あることで万民に感動を与える「やさしい行為」なのです。その一端が冒頭で述べた今回の冬期オリンピックという民族の触れあいの中に表現として表れるところの「相手を思いやる心」、「痛みを分かち合う振る舞い」などです。これが計算づくではなく身体からにじみ出てくる言動であるならば、相手の心を打ち解けさせ、手を握り、肩を寄せ合う姿になり、相互に理解し合える道に向かうことができるはずだと思います。
これが個人同士ではなく、民族の集団間で行い合える道を私達は考え、探り合い、実行することに叡智を結集する必要があると思うのです。もちろん、今まで私が言ったこのようなことを誰も考えてないということではありません。

ただ、私が見るに、その多くに基本的に大事なことについての配慮がまだまだ足りないことからそれがうまく事が進まなかったり、挫折してしまったりしていると思っています。
その問題点を集約すると次の三点だと思っています。
1)「規律の中での自由と、自由の中での規律」について 
2)「個人と集団での行動の違い」について 
3)「異文化の中での調和にあり方」について⇒(多様な民族・人種の共存⇒文化的多元主義にもとずく、いわゆるサラダボール的集団)
これらの事を、その地域、その人達が相互にわかり合い、守り合うことの大事さがオリンピックなどの国際的イベントを通して気が付き、行動し、相互に影響しあうことができれば、もっともっと世の中の善の交流が進むはずです。
これをわきまえ、強い信念で実行に移せる人がこれからのための新国際人であり、これからの平和の源泉となると私は強く思っています。

私は、以前このブログに次の様な記事を掲載しました。
2016年2月25日「EUの現状から思うこと」
2016年11月28日「2016年を振り返って先を予測する(国際情勢の観点から)」
しかし、それから1年以上を経過した現在、EUを中心に状況は好転するどころか行き詰まりと言ってもよい情況です。長い紛争の歴史を反省して、入念な準備期間を経てスタートしたあのEC制度がEUに進化・充実し、安定に向かうと思われた中で混乱が生じてしまったのは前述した三つの事項についての配慮と煮詰め方が足りずに民衆に発生させてしまった不平不満を、抑えきれずに起こしてしまった大きな政治的な誤算であったと私は非常に残念に思っています。
過去、私が実際に住んで共に働いて感じてきたあのヨーロッパの人達でさえ起こしてしまった今の状況であり、また若い時から多くを学ばせてもらったあの太っ腹であったはずの米国が至った今の状況でもあることから、日本はこれらのことを熟考して、落ち着いて、抑制せねばならないことはしっかり抑制し、アスリート達が見せたような人間性を駆使した精神で世界のお手本になるべく行動し、着実に世界に貢献していくことを今こそ心掛け、実行していく必要があると思っています。

振り返ると、過去、我が国のビジネス界において、マネージメントの極意(教え)である「チームワーク」や「リーダーシップ」、戦後造りはじめた商品の”安かろう悪かろう”を正すための「品質管理と品質保証」、ものまねを抑制する「知的財産権」などの必要性を説いた貴い教書が欧米から数多く到来し、日本の社会もそこから沢山のことを学ばせてもらったという歴史があり、そこに現地で学んで来た人達の知識や経験の還元も加わって皆で必死に働いた結果、日本の経済成長の基盤が作られたのは間違いの無い事実なのです。
明治以来、欧州諸国、次いで米国が我が国の人材を育て、産業育成を根気よく支援してきてくれたからこそこの日本の今があることを時代が変わり豊かさが増してくるに連れて、ついつい忘れがちになったり、無視する人達が多くなったりしてきているように感じられ私は心配しています。近代史を紐解けば欧米諸国が我が国の発展を支えてくれたことは間違いのない事実なのですから、これからの人達も決してそれを頭から外してはなりません。

そして今後は、発展を望む次の国々に対して労を惜しまずより広範に、より根気よく支援していくことが、これまで我が国の支援の労をとってくれた方々や組織や国へのお返しになるのであって、それこそが国際人としての務めでもあるのです。そして、これが人の道であり、そのことが我が国を先につなげることになると思っています。ですから、決して目前の欲に、特に経済至上主義一辺倒の流れに惑わされてはいけないのです。

この行動を支えるのは自然の法則と私達の良心です
私の眼からこれからの次代を担う日本の若人に薦めたいことは、ただ単なる経済競争一辺倒から脱して、次なる諸国の復興、発展を下支えする知恵、技術、技能提供です。
私が推奨する分野を挙げると「組織作りとマネージメント」、「信頼性工学」、「品質保証」、「食品衛生」、「公衆衛生などの予防医学」、「製造衛生技術、技能」、「医療機器製造技術」、「災害工学」、「建築土木工学」、「省エネ技術」,「農畜産技術、技能」などですが、これらの実学分野を産官学協賛の上で深耕し、人材を添え、それらの重要性を理解し充実を求める国々を根気よく支援することが非常に大事だと思います。皆で考えればこの日本には諸外国から望まれ、喜ばれることがまだまだあります。大事な事は、自分達だけではなく、相手のためになることを共に考え、共に築く道を探ることです。そうすれば、その先には、これらの基礎事項を取り入れた各産業の応用技術や技能が引き続いてそれらの国々から求められていくことになるでしょう。このように、これからの国際活動は目前の収穫を考えるよりも、世界各所に善の種を植え、人を育て、それらの国を底辺から充実させることに力を尽くすことこそ今後の日本の進むべき道だと思い、あらためて強く推奨する次第です。そのために最も大事なことは、皆さんも十分にお分かりだと思いますが、これらの施策を推進するための国家体制の安定化、すなわち政治と経済の進歩発展に国民一人一人がそれぞれの役割に応じて力を発揮し、根太い健全な国家を築いていくことなのです。

良心はどこで生まれて、どのように育つのか

以上、述べてきた事柄を支え、維持するための源泉はやはり人間の「良心」や「理性」と言えるでしょう。それでは私達の強く正しい行動の基本となる人間の理性や良心の源泉はいったいどこにあって、どこで育てられるのでしょうか。またこの良心や理性が機能しなくなるのはどういうことで起きるのでしょうか。
このことは私達の身体内の複雑な仕組みが作用して起きることなのですが、たとえその概要であっても私達の身体の構造と機能も絡んでくることから語りはじめると冗長になってしまいますので、今回はひとまずここで閉めて、その説明については次回に行うことにします。それまで本稿で述べましたことをぜひ熟考頂き、お待ち願います。