秋に入り、稲穂の垂れぐあいから種子すなわちお米が実ってきていることが分かります。
米食う人々と言われる私達日本人にとっては快い眺めではないでしょうか。
その光景を見ていると私はいつも、子供の頃に言い聞かされた「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉が頭に浮かんできます。
この故事成句は詠み人不詳とのことですが、中々味わいのある言葉であり、意志がゆらぐ時の自分への戒めの言葉として大事にしてきました。
これに類する言葉として英語圏では次のものがあります。
The boughs that bear most hang lowest. 一番実を付けている枝が一番低く垂れ下がる。
The more noble, the more humble. 高貴な人ほどつつましい。
Pride will have a fall. 高慢(思い上がり)は失脚を招く。
お隣の中国では次のように言われてきたようです。
成熟的稻穗低着头 成熟した稲穂は頭を下げる。
真人不露相 才能のある人は軽々しくそれを見せびらかすような事はしない。
知者不言、言者不知 知恵のある者は言葉が少なく、言葉の多い者は知恵が少ない。
これらはいずれも歳をとるほど、そして特に高みを目指す人には肝に命じなければならない言葉だと思いますし、そうであるからこそ若い人達が付いていくのであって、そうでなければ協力者が去り、いずれは惨めな人生を終えなければならなくなるということを私はこれまで生きてきた中で数多くみてきました。

そういう考えで、今でも自らを整えることに気を配っていると、昨今以下に述べるようなことが特に気になり、心配しています。自由の国だから放っておけばと思いながらも、これからの若い人達にとって世界から信頼される生きやすい社会のことを考えると、この傾向は必ずや自分達にとって信頼度の高い社会構築の阻害要因になると思うことから、業を煮やしてあえてここに年配者からの客観的な意見を述べておきますので、ぜひ参考にしてもらいたいと思います。

昨今のSNSの急拡大や偏向報道にともない、それに乗じて意見を発する人が増えてきましたが、私はそれをつぶさに見ているわけではないものの、あまりにもその内容の低さと異常性が目立つので「いやはや」と驚き、嘆かわしくなって掲題のようなつぶやきをすることが多くなったのです。
それはまさしく一言居士(何かにつけ、自分の意見を一言でも言わなければすまない性格から、事あるごとに言わなくても良いようなことまで口を出すような人のこと)的な発言や、目くそ鼻くそを笑うような「情けない批評」、目に余る「人を追いつめる中傷誹謗」がTV報道、新聞、雑誌などに、「言論の自由」という言い訳を盾に、人の不快感も無視してはびこってきているからです。

あの「思い遣りがあって、人の痛みが分かる、正義感があって礼儀正しい」はずであった日本人はどこに行ってしまったのでしょうか。たとえ「売り言葉に買い言葉」とはいえ、節操がなさ過ぎるのではないでしょうか。自由には規律が伴わなければいけません。
自宅の近くに学校が多いことから、朝夕に小、中、高の生徒達と出会う機会がありますが、マナーも良く、素直な顔から元気をもらっています。中産階級が主体のそれなりに恵まれた地方都市だからかと思って、他所に出かけたときや旅番組などを注意して観察しているのですが私が日頃感じていることと大差ないように見えます。ただ大都市で生活をしている家族に聞くと、地域によってはその品行に差があると言うことですが、戦後しばらくの状況を知っている私からみると可愛いものです。

私が気になるのは、成人のある年代層、特に現在働き盛りの年齢層やリタイヤ前後の初老になると品性に欠ける人が目立つということです。それはなぜなのでしょうか、ストレス症候群に陥っていると一言でかたづけられない国の品位や体質を問われる現象だと私は非常に心配しています。多分、その人達の青少年時代の政治、経済状態が作り成したことではないかと思っていますが、もしそうであれば恐ろしい問題ですので、よく分析して今後の反省材料にし、それに乗ずることなく、人のふり見て我がふり直すという行動原則を広め、社会是正と維持向上対策を政策的に根付かせて行く必要があると思っています。

特に国内で発生する問題に対する論評に上記の傾向が目立ちますが、いくら番組編成の都合や限られた時間内の原稿とはいえ、その経験や確かな考えが無く、自ら現場を確かめもせずに行われる場当たり的な発言は無駄などころか、聞く人、読む人にどれほど不快感を与えているか知らなければいけません。このようなことを巧遅拙速などと言い逃れをするのは罪深いことだということもです。

よくみられることなのですが、人気取りのためと思われる奇をてらった発言が人に不快感を与えているということを気にもしなくなるいうことが、無責任ということだけではなく、特に次代の人達にどれほど影響しているのか、延いては対外的に我が国の品位をどれほどおとしいれているかということにぜひ気が付いてもらいたいのです。これまで諸国を遍歴してきた私にとってはこの現象が特に気になります。

言葉を重ねますが、「本当にそれでいいんでしょうか」、「あなた方は人間の精神のデリケートさや、弱さを知っているのでしょうか」、「弱った精神が起こす病気や犯罪がどれ程増えてきていて、それに費やしている社会コストの実態を把握しているのでしょうか」、「そのために黙々と身体を張って対処している人達の苦しみや悩みを知っているのでしょうか」と私は厳しく問いたいのです。

外交問題にしても然りで、真の実態や事情を把握しないで相手国の弱みにつけ込んでいい気になってあげつらうことに熱を入れても何も益がないのです。物事というものは非がある方がいずれは苦労するものなのですから、こちらが落ち着いて対処していけば良いのであって、火中の栗を拾ってはいけなのです。喧嘩の先手を考えるのは愚の骨頂なのであり、先ずは日頃から我が方が指摘されないように守りをしっかり固め、孫子の「戦わずして勝つ」戦略を冷静沈着に積み重ねるべきなのです。

私達個人にとっても、無責任発言に熱を上げているより、もっと自分の身近で見えるところに目を移すと、やるべき事が沢山あるはずです。それを皆で役割分担しながら改善し、世界から信頼され、自分達にとって真に住みやすい社会をつくっていくことが先決ではないでしょうか。なぜ、それに気が付き、自分達の頭と手足を使って皆で汗をかき合い、これこそが国力を付けることに繋がるという実感を味わおうとせず雑踏の中に隠れ住むのでしょうか。

こんな単純な分かりやすいことに目を向けず、益にもならないその場限りの論評に時間をつぶしていることが情けないと思わないのか、わびしくならないのか、私は不思議でかつ心配になるのです。精神医学的な観点からみると、私には「ひとの不幸は蜜の味」という脳科学的な麻薬の中毒になっているとしか思えません。私達日本人の心から「誠実」ということが失われ、発する意見が公平公正から外れたとき、必ずや国力の衰退に向かうことになるでしょう。
そうならないことを切に願って、あえてこの原稿を書きました。
*2018年9月15日投稿学び舎ブログ記事:「好奇心の経過とその功罪」