目次

1.不知の知
2.組織の掟
3.争いのメカニズム
4.生体内のコミュニケーション機能
5.集団を科学の目でみる
6.自然の摂理
7.理性は本能を凌駕できるのか
8.まとめ

文献

1.不知の知

40億年近い生命史の中で、数多くの試行錯誤を繰り返しながら形成されてきた私たち生物の体内には、今もって人知では計り知れないほどの貴重な仕組み(構造と機能)が蓄積されてきています。それゆえに生命科学では研究テーマに事欠かないのです。
さらにさかのぼること数億年前に誕生したこの地球そのものにもこれまた未知の現象が多く、科学文明が進んだと言われる現在においても、人間はマクロ、ミクロの自然の驚異に翻弄されながら生きながらえているというのが実状と言えるのではないでしょうか。

そうでありながらも、古来、知らないということを知った人間の叡智は、世界各所各方面からそれら未知の究明に果敢に挑戦してきたわけですが、その努力の結果が自然科学(理学、医学、農学、工学など)のみならず、社会科学(経済学、法学、教育学、政治学、社会学、心理学など)の分野にも応用展開され、その恩恵の上に今の私たちがあると悟ることが賢い生き方ではないかと私は思っています。

『こんなことを書き出していた私も、最近、次の記事を読んで強い虚しさにおそわれています。
それは、「世界水の日(3月22日)」に合わせてユニセフ国連児童基金が発表した報告なのですが、長期戦時下におかれた諸国(16カ国2014年~16年推定データ)では、15歳未満の子供の死因に、安全な水の欠乏による下痢性疾患に起因する死が、戦闘関連の暴力に起因する死の3倍近くもあり、それが5歳未満では20倍に至っているという内容です。(15歳未満戦闘起因死亡年平均3万900人。細菌性または栄養失調性下痢起因死亡8万5700人)
なんと悲しい報告なのでしょうか。これは、たるを知り、生をよろこぶことを忘れた人類が行っている行為のしわ寄せが、世界の片隅でこのような痛ましい出来事を生み出しているという表れの一端であり、あらためて私たち人間の愚かさを強く感じ、私の枯れた涙腺が疼くのです。』

大事なことは、この自然史において身の回りのどれがどのようなことから創出されて今に至っているのか分かろうとしないまま、当たり前のようにそれらに依存し、無神経に使い続けていくことの問題点を私たちは今一度考え治す必要があるということです。そうでなければ人間はその内に自然が持つ自浄作用(注)によってこの地球から排除される可能性がより早まることは避けられないでしょう。それは、大自然そのものが無機と有機の合目的的混合体で造られた生あるものなのであって、それを無視して休みなく使い捨てていくとどうなるかは、すでにはじまって久しい自然の変化を直視すると分かると思うのですが、いかがでしょうか。
(注)動植物で言えば、障害に対して起きる排除、修復、治癒など一連の病理学的組織反応

私も歳を重ね世の中をそれなりに俯瞰ふかん的に見ることができるようになってくるにしたがい、自分のことよりも、次代を担う人達のことを考えることが多くなってきているのは、これもまた自然の成り行きなのでしょう。
そういう中で声を大にして言えることは、「いま悩んでいる問題を解決するためには、先ずはこの自然の巧妙な仕組みやその由来を知る」ということなのです。
そのようなことから、今までもそのつもりで書いた記事をこのウエブサイトを通してブログというかたちで皆さんにお届けしてきたのですが、今後も引き続いて、時流に見合ったテーマについて関連する自然のノウハウをご紹介していこうと思っています。そして、それにより次代を担う皆さんがこれからの人生の激流を泳ぎ切るための足しになればと願っています。

2.組織の掟

私たちの社会で、個人やその集団が確実に事を成し遂げるためには、「十分な事前調査をもとにしてその手順を定め、教育訓練を通して周知徹底させ、その検証と定着のために管理監督体制を整える」ということが必要不可欠な条件でありながら、実際にはこれが意外にうまく行われていないのが実状なのです。しかもこのことは会社や役所などだけではなく、一般社会や国全体の働き方や生活改善にもあてはまる問題ともなりますので結局は国力の差にも繋がると考えるべきことなのにです。
この実務プロセスを「マネージメントやコミュニケーションを向上させるための体制強化」とも言い換えられるのですが、それを実行するのには内部環境すなわち集団構成員の資質や外的環境条件などによって一様ではありません。ですから在り来たりの教科書や教育研修などから得られる知識だけでは不十分で、その上に実戦の積み重ねによる経験的能力が必要になるわけです。
そして、組織をつくった以上はその過程で取り決めたルール、すなわち「掟」を一丸となって守り合うという強い結束力と維持徹底力、さらには不都合が生じたことついては速やかな検証と修正を行うという柔軟な革新的行動力も相まってこそ、その組織が安定していくことになります。
以上のことを組織の掟という言葉に含ませて、その仕組みを例によって私なりの「そういうことは自然ではどうなっているのか」、すなわち「自然界の仕組み」という観点から話をしてみたいと思います。なお組織は集団ですが、ただの人の集まりではありません。自然の中でも然りで、たとえ鳥であっても烏合の衆的な集団ではなく、もしそうであったなら捕食者の格好の標的にとなって四分五散のすえに個々そのものも存続できなくなります。そのようなことから本報で使う集団という言葉は、と同じ意味をもたせて、そこにはそれなりの組織機構があるという考えで使っていますのでお含みおきください。そして自然界でみることができる生物集団は、動物のみならず植物、さらには多様な微生物まですべからく合目的的な組織形態とそれに見合う機能をもっているがゆえに生存していられるという前提で話を進めていきますのでご理解願います。

自然の中では、その集団を構成する個体の行動がその集団にそぐわない時には、その集団を統率する経験あるリーダーがその個体の行動をいち早くいさめたり、制裁を加えたりする行為がごく当たり前に行われており、時にはその反抗する個体が死に追いやられたり、群れから追放の末に置き去りにされることはめずらしくありません。これは自然の中で過ごす生物が長い進化の歴史の中で獲得した環境適応のための基本行動プログラムの中に組み込まれているからなのでしょう。言いかえれば、群れ、すなわち組織は統率されていなければ存続が難しく、そのために経験豊かなリーダーがいるのであって、掟に従わないで自分勝手にしたい場合はあの手この手を駆使して自らがリーダーの地位を勝ち取るか、それに勝ち目がないのであれば自らがその組織(群れ)から離れなければならないのが自然の姿なのです。
かといって勝ち取ったリーダーの地位も群の構成員から嫌われ、強引な行為にも従わなくなればそのリーダーも存続できなくなり群から外されるはめになります。
リーダーが異なる集団はその力量に合わせた大きさと地位が作られ、それが侵される場合はそれら集団間の争いに発展するという現象もこれまた自然のありようなのです。

ただし、そのようにふだん争い合っている集団であっても、自分達と異質の手強い相手に対処する場合は、それを共通の敵として、日頃は牽制し合っている集団が同種異種にかかわらず協調して戦うことがあります。そして、それが収拾できるとまたもとの拮抗反目する集団関係に戻るのも普通のすがたなのです。
このような現象の一端を利他的行動Altruismと称してこれを遺伝子的遠近(Kin selection血縁淘汰)や互恵的利他行動などの切り口から解説している研究者1)もいますが、私もそのようなことが背景にあるからであって、これが生存競争の中で自然発生的に起きる本能的生物行動の表れだと思っています。

3.争いのメカニズム

上述のことに加え、私は、自然界でのコミュニケーションには遺伝子(血縁)因子のみならず、環境適応の過程で獲得した免疫系と内分泌系双方の生理学的システムで作られる個体の生物学的基盤(体質)が、その同種の集団全体にも同期synchronize、同調follow、調和harmonizeされ、その総和の違いが集団間の融和、あるいは対立行動に影響してくるのではないかと考えています。そして、この辺りの生物学的仕組みに集団の争いを回避するための鍵があるように思えるのです。このようなことから私は、次代を担う人達がこの辺りのテーマを追求し、その成果を社会に役立ててくれることを強く期待しているのです。

獲得や競争の意識は体内においてホルモンや脳内生理活性物質の分泌を高め、その興奮が闘争本能をかきたて、行動を快活にさせます。人間は幸か不幸か大脳が特に発達したことから、はじめは他の動物同様に興奮が興奮を呼び起こすのですが、さらにその先では性ホルモン由来の衝動を超えた所有、地位、権力などの欲望に囚われるようになります。そのあげく、先に述べた「足を知る」や「生をよろこぶ」という自然が望む禁断の掟をやぶり、その快感に心身共に酔いしれ、その習慣性、依存性行動に歯止めがかからない状況になっていく傾向の強い動物なのです。2)3)
特にリーダーたる者にこれが強く表れて当人の理性が効かなくなるような時には、それが集団の統率行動に影響を与えるようになり、その不自然さが集団全体の環境適応性に悪影響を与えてその集団が大きな損害を受ける結末になるのですが、このような事象が世界史の中にいかに多いことか、人間の本質がこんなにも思慮が浅く、いとも簡単に偏りやすいのか、驚き、考えさせられるのです。4)

かと言って、組織の中にいて、自分が自由にできないとして内にこもって組織を批判したり、リーダーの邪魔をしたりする行為は、自然界からみればそれこそ不自然なこととなり自然淘汰の作用が働くのですが、これが人間社会においては、いがみ合いの収拾をつけられず組織を再構築しないままで不活性な状況を続けている現象が、いち民間組織だけではなく地域や国家規模においてもみられることがあります。そしてこのような現象は歴史的にみても世界に共通する現象として表れているように思えます。
これはどういうことなのか、その地域や時代が影響する問題なのか、それなりのリーダーが出てこないというその集団の下地に原因があるからなのか、それとも生物学的にみて大脳前頭葉が発達したがために出てきた黒白はっきりできない、あるいはあえてはっきりさせない人間の特徴が作用しているためなのか、他の動物種と比較生物学的に調べてみるのも中々おもしろいテーマだと思っています。これを追求していくと彼のA.マズローの欲求階層説を凌駕した新説を打ち立てることができるかもしれません。

4.生物体内のコミュニケーション機能

それではここで視点を変えて、私達生物の内部の組織とそのマネージメントやコミュニケーション、そしてその中の掟についてミクロの世界のようすを見てみましょう。なお、生体内の組織統括のための「マネージメント」のすがたについては、以前、拙著「Biological Management:自然の仕組みから学ぶマネージメントの原理」の中で、「生体組織内の実質と間質の相互関係は、私たち社会の仕組みを適性に構築するためのマネージメントの参考になる」と、実例を挙げて説明してありますのでここではその繰り返しは避け、今回は「コミュニケーション」の面のみに焦点を当てて話を進めます。

生き続けるための活動は、生体を構成する細胞組織の中で一定のルールにもとづいて営まれており、その構成細胞のどれか一つがそのルールから逸脱した自律性をもった(自分勝手な)過剰な行動をとろうとすると、身体全体に仕組まれた免疫機構により制御、排除、抹殺されるのが正常な生理作用です。もしその異端の細胞が組織の統制機構を免れて生き残り、増殖するような時はその局所にそれを排除するための紛争(炎症)が起こり、状況によりそれが全身に波及しないように段階的な粛清(治癒)反応が拡大して、そのうちに全体が生きるか死ぬかというところまで行き着くということは病理学的に良く知られた現象であり、その典型的な例ががん細胞の行く末なのです。

5.集団を科学の目でみる

主体となるリーダーがいて、それが組織を率いるという仕組みになっている集団であればその相互連絡と統制、すなわちコミュニケーションとマネージメントのあり方は傍からもそれが分かるのですが、それが分かりづらい集団も少なくありません。例えば、微細な生体現象としては専門家でないと見られないような生体内の組織細胞集団の様相がそうなのですが、目視で確認出来る現象としては自然の中で時々見ることができる鳥や魚、昆虫などの、群れの行動の中にもまだまだ解明されていない不思議な現象があります。
たとえば、私達が時期により目にする鳥の群れなのですが、それらが数えきれないほどの大群を成して移動するときにはたして特定のリーダーに当たるものがいるのかどうか、そしてその結合、分離、整列などの調整と統制はどのようにおこなわれているかということです。人間がつくるような階層的マネージメント体制が組まれていて、それを通して意思伝達、すなわち組織的な情報伝達体制がとられているとはとても思われない現象があるからです。
そうでありながらも、あたかもその大群が一つの生きもののごとく一体となって、危険を避けるため集団のかたちを多様に変化させながら一定の規律を持つように移動していくようすが観察されます。
このことについて次の資料にも科学的視点から報告されています。
⇒ 群の科学 https://wired.jp/2013/12/28/as-one-vol8/

これら集団を構成する個体は自らの前後左右の仲間とどういう仕組みで連携しあっているのか、色々調べて見ても私にはまだ明確なものを入手するに至っていません。
今、住んでいる北国の我が家の上空を、冬期間、きまったように、朝になるとねぐら・・・にしている川州から餌場に向かって飛び立ち、夕刻にまたねぐら・・・に向かって飛行するオオハクチョウの群れであれば、一集団数羽でV字編隊を組み、別の編隊と一定の距離をおいて、一編隊ごと、中のどれかがまるでラッパのような鳴き声を交わしながら飛び去って行きますので、多分その鳴き声が群内の合図になって調整がはかられてているのではないかと推察できます。
しかし、ムクドリなどの小鳥、昆虫、魚類などの大集団は、その集団の各所の連携をどのようなコミュニケーション方法で統制しているのか非常に不思議です。何百どころか何千、時は種によって何万匹以上の集団があたかも一匹の生き物のように一体となって連動しながら移動していく姿をみていて、私は子供の頃から非常に不思議に思っていましたが、今もってそれを明解に説明してくれる文献を探し当てていません。かろうじてウエブ上で探し出したのが先に紹介したサイトと同じタイトルの京都大学坂上雅昭氏の「群の科学」5)でした。これを末尾の文献中に記載しておきますのでご確認ください。海外も含めてもっと広く検索すればまだ出てくるかもしれませんが、どちらにしてもこのテーマは古いながらも研究内容としては先端技術が求めて余りある領域ではないかと思われます。

水中の魚の大群も然りで、空中を飛び移動する鳥や昆虫の行動と同じく、群れすなわち生物塊が一匹のいきもの・・・・と化して動いていく中で、一見隣同士の変化の連鎖が全体の行動様式となり、規律に繋がっていくなかで行われているコミュニケーションシステムは、電子通信技術分野でも見逃すはずのないテーマだと思っています。自動走行車や無人飛行機、ドローン輸送機などにはまさしくこの方面メカニズムが応用されてこそ安全に近づくものとなるでしょう。

私の専門であった基礎医学(病理学)の視点をもってこれらの自然現象から推察できることは、生体内の組織細胞が執り行っている生理的相関関係と類似しているところもあるのではないかということです。
その一つは隣り合う細胞同士が生理活性物質を使って行う連携関係(生化学的シグナル伝達システム)、その二つ目は少し離れた細胞や組織の連携関係、すなわち共同内蔵器官系の中の器官同士が生理活性物質を使って行うシグナル伝達統制関係(生化学的カスケード)、三つ目はその諸器官と他の内臓器官との間で行われる液性相関(血液やリンパ液を介してホルモンなどの生理活性物質を使って行われる相互連絡方法)、そして四つ目は神経相関(諸臓器、諸組織の情報を感知する末梢神経と中枢神経系の間の神経相互連絡システム)なのですが、これらが先に話してきた集団のコミュニケーションシステムの情報伝達と方法論的に重なるところがあるのではないかということです。

私たち生物は、臭覚、視覚、聴覚、味覚、触覚などの鋭い感覚システムが、生存するためのコミュニケーションツールとしてそれぞれ単独に、あるいは複合的に重要な役割を担って機能しています。人間を含めた動物の体内では、体外の環境変化、あるいは体内の異常をこれら感覚と前述の生理的相関関係で感知し、その情報に基づいて対処すべき反応が連鎖的に起こされ、行動につながり、この行動が集団の危険回避や採餌、休眠などを通して恒常性(ホメオスターシス)が保たれ、これが生命活動の基本的姿となっているわけですが、この反応様式が群という集団の中の空間も含めて私たちには分かりにくい仕組みながら行われているようにも思えます。
先に述べた鳥、昆虫、魚など、さらには哺乳類においてもコウモリやアフリカでみられる牛科のヌーの大移動なども含めて、群を構成する一つひとつの個体が、生体内組織の細胞一つひとつと同様と考えると、それら大群中の情報伝達の仕組みを想像できなくもないのですが、はたしてどうなのでしょうか。
もしかしたら空間を伝わる波動、生化学物質、はたまたその他自然の特別の物理的現象がこれらのコミュニケーションシステムに介在しているのかもしれません。群のコミュニケーションの中でも、隣接同士、近接同士、離れた集団同士の何らかの感知、同期、調和などのシステムが自然発生的にできてくるのではないかということについてはすでにそれらの分野で論及されているようですので、私の頭が回る間に応用を含めて成果が出てくることを強く期待しているしだいです。

6.自然の摂理

さて、論点を変えますと、古来、私達人間は人知を越えた神秘な何ものかを「自然の掟」と称し、自然災害に見舞われた時にはその不文律を犯したことによる制裁を受けたと恐れ、あがめてきたのですが、文明が進んだと思っている今でもその実状は変わっていないと思います。
その制裁を下す主体は何なのか、じっくり考えてみる必要があるのではないでしょうか。
私には、人間の群れの掟を乱すのも人間そのものであり、そこから制裁を受けているのも人間なのだと思っているものですから、原因と結果が分かることから解決策もみえるはずなのですが、それができずに進んでいる人類には、もしかしたら“ネズミという目前の災難を避けるためにハーメルンの笛吹き男を騙して、その結果自分達に大きな災いを招いてしまった彼の国の村人達の寓話”が当てはまるのかもしれません。

7.理性は本能を凌駕できるのか

凌駕りょうがとは「他をしのいで抑えつけること」ということです。言いかえれば「意識が本能を制御する」ことができるのかということです。進化したと言われる人間も、地球規模で俯瞰的に見ると今の実態は気の向くままに動いているにひとしく、私には本能に逆らわず、あるは逆らえずに行動し、時の流れに流されていると言ってもよい状態にみえます。
理性の中枢と言われる大脳の前頭前野が人間において特に発達した理由は何なのか、
何がして本能的な行動を制御するために発達させたのか、そしてそれが私から見れば中途半端なのはどうしてなのか、それには何か理由があってのことなのか、それはもしかしたら人間をむやみに増えさせないための仕組みがそうさせているのか、色々考えさせられます。
言い換えれば、確かに理性の中枢が本能的行動を抑制するということは脳科学的に明らかになっている事実なのですが、実社会ではそれが必ずしも機能しないで不祥事、犯罪、紛争まで歯止めなく突き進むのどうしてなのかということなのです。
私がよく引き合いに出すスティーブン・ピンカー氏の「暴力の人類史:原題The Better Angels of Our Nature」の冒頭で述べられている「私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているのかもしれないのだ」ということは、統計上からみた結果ではそのとおりながら、人間の不安定な精神的変化の先行きからみるとどうなのだろうか、私は心配になるのです。

生理学的にみると本能をつかさどる中枢が発する行動指令は、速く、かつ強いのですが、それを制御すべき理性は直感的ではなく過去の経験や周辺の状況に照らしてその行動の是非を考え抑制するという、経験や教育によって培われた神経組織を経る仕組みになっています。そのために本能に起因する直感的な行動には往々にして間に合わないことが多いのです。この時差、へだたりを制御、阻止、校正するのためには自らの克己心だけでは難しいのでしょう。それゆえに集団というもの必要性が出てきて、そこで必然的に掟というものができてくるのではないか、私はこんなことを考えています。

自然界で実際に見られるように、生まれた時は親が、長じて集団行動を乱す動きを取るものについては群れのリーダーや他の冷静な仲間がそれを阻止し、いさめる行動は良く見られる行動です。要するに集団を乱す行動を集団が監視し、それを収めるという動きは生物に備わっている基本の生理的機構なのかもしれません。
このことは前述したように、ミクロの観点からもそれを確認することができます。生体内の組織は秩序をもった構造と機能を構築し、個が集団の掟を逸脱しきずなを崩さないような生理機能を保っています。その組織集団のどこかの上皮細胞、あるいはその結合組織(支持組織)の一部が自律性を持った非組織的な行動を起こすと、その周辺の細胞組織はそれを制御し、排除して孤立させ、生き続けられないようにすることで、それ自体は変性、壊死などにおちいり、吸収あるいは組織外に排出される。この免疫学的機構が崩れると本体が病気という状態におちいり、総体が機能不全を経て死に至るのです。

これと同様な現象として、生物を社会集団的にみたとき、異常を持って生まれたものや、生後にけが、病気、老化などで仲間と共に生存し続けことが難しい状態に陥ったときには、その個体はその集団から殺されたり、排除されたりするのが自然界ではよくある行為であり、それが生存競争の中での種の保存として本能的に備わっています。
人類は進化の過程を辿ってくる間に、この事象は果たして自分達にとって正しいことなのかどうかを理性的に考えるようになり、人間としての掟(すなわち政治理念、法律、道徳教育など)として表し、保ち、それを整えてきたのが私たちの先祖であり、それがその他の動物達との違いになってきたと思えるのです。言いかえれば生物学的に自然界で生き残るために負担になることを理解して、理性を持ってその負担を皆で背負って進むべく歩んできたのが人間とも考えられるのです。

この価値観は、人種、民族、国家によって差があり、そのおかれた環境条件によってどれが妥当かを合わせることは難しいことながら、そういう違いがあるということも相互に理解しながら、協調しあうのが現在の国際社会だと私は思っています。もちろんある面では大差があることも理解しつつ、考え方や意見が違おうとも同に舟に乗った人間同士として行動する呉越同舟ごえつどうしゅう(同じ舟に乗った運命共同体)として進むのが、人間が進化の過程で選んだ道だと考えたいのです。
このことを頭から外して、利害が合わない相手を排除し利己的な道を進む先には、それは自然がして人類に選ばせた道に背くこととして自然の厳しい掟が待っていると思うのは多分私だけではないはずです。

8.まとめ

以上書いてきた内容を振り返ってみると自分でも思考が紆余曲折していることが分かります。それは私の文才のせいもありますが、それ以上にこのテーマ自身が未だ不明確なことが多く、かつ倫理的にも難しい問題が多く含まれているということもありますのでご理解願います。
生きとし生けるものたる私達人類も生物という舟に相乗りして時の川を移動しているわけで、それを自覚し行動を自制し、同乗の仲間共々大過なく舟を進めることを考えなくてはならないと思っています。そのためには自分達に都合のよい相手だけではなく、あらゆるものと良質なコミュニケーションを取れるようにすることが大事であり、このことを少しでも多くの人が共有してもらいたく願って、あえて今回この難解なテーマを取り上げたわけです。
自然との自然なコミュニケーションをとるすべを人類が持つことができれば、先に向かって今すべきこと、あるは廃止すべきことを根拠を持って明らかにすることができるでしょう。

為さねばならないことを為し、為してはいけないことを為さない、これを判断し実行するために必要なのが意思や感情、思考などの情報伝達であり、これがコミュニケーションの原点にあることが非常に大事だと思います。
コミュニケーションには感性が必要条件になります。自然界には正と負の組み合わせでできており、その双方を隔てなく感受するための繊細な感性が私達には必要です。この感性を養うためにはそれに見合う環境の整備と組織的な教育訓練が必須の要件となります。
私達は未来に向かってこのことを忘れずにものごとを進めてゆく必要があるのです。

私は宗教家ではないものの、以上述べてきた文言の中には哲学じみた思想を感じた方がおられたかもしれません。しかし自然科学の原点もまたPhilosophyなのであって、自然を観ながら現象から事実を忠実に学び思考していると、このような自然の摂理ということを感じた考え方や物言いになってくるということですので、ご容赦願います。
お読み頂きありがとうございました。
それでは、今回は、この辺りで閉めさせてもらいます。

文献:

1)W. D. Hamilton:The Genetical Evolution of Social Behavior, J. Thor. Biol., 1-52,1964
2)拙著:「共に生きるための条件と限界」,MTCJapanウエブサイトブログ記事, 2018/11/15
3)拙著:「好奇心の経過とその功罪」, MTCJapanウエブサイトブログ記事, 2018/9/15
4)拙著:「良心はどこで生まれてどのように育つのか」, Amazon Kindle版, 2018/5月
5) 坂上雅昭(京都大学総合人間学部):群の科学
http://ganesha.phys.h.kyoto-u.ac.jp/~sakagami/school.pdf
6)スティーブン・ピンカー:「暴力の人類史(上)(下)」, 青土社, 2015年4月